夕刊フジOBのホームページ

夕刊フジのOBの皆様お元気ですか。ここは「知る人だけ見られる」夕刊フジの ホームページです。「夕刊フジの挑戦」が世に出るまでの動きと、OBの近況や動きを伝えます。

(本来OBの交流ページだったので、やや内輪話になります。ご承知おきください。下から上に新しく積みあがります)



見出しクリックで飛びます

「おれんじ会2024」に36人参集 (2024.3.20)

山口昌子さん レジオン・ドヌール勲章オフィシエの叙勲伝達式(2023.10.27)

「おれんじ会2023」 4年ぶりに開催 (2023.2.25)

おれんじ会最長老、島谷康彦さんが亡くなりました(2022.10.4)

山口昌子さんの新著紹介(2021.9.25)

別府育郎さんの新著紹介(2021.6.25)

『デジタル de おれんじ会2021』開催(2021.5.8)

太田英昭さんの新著「フジテレビプロデューサー血風録」(2021.4.14)

安藤徹カメラマン逝く(2020.6.15)

山口昌子さん「フランスと私」を語る YouTube(2019.12.16)

「夕刊フジ創刊50周年」の集い」(2019.2.25)

千野さんの近著 「戦後国際秩序の終わり」(2019.3.2)

アドストーリーの名整理マン、小笠原満さん逝く(2018.9.9)

夕刊フジのサッチモ、小泉良夫さん逝く(2018.7.6)

「おれんじ会2018」にOB、現役31人出席(2018.3.10)

「さくら色のおれんじ会2017 in箱根」(2017.4月8日〜9日)

千野境子さんのコラムを紹介(2017.3.22)

原口順安氏を偲ぶ(2017.2.18)

山口昌子さんの新著『パリの福澤諭吉』が大好評(2017.1.14)

「おれんじ会2016 馬見塚さんを偲ぶ会」(2016.4.9)

「おれんじ会2015」に33人(2015.10.29)

追悼 丸山正一さん(2015.11.6)

『フランス流テロとの戦い方』(2015.4.8)

島谷康彦さんの新著(2015.2.25)

松村さん偲ぶ・おれんじ会(2014.4.12)

正月、山口昌子さんと会いました(2014.1.9)

「土屋達彦・出版記念の集い」(2013.10.17)

山口昌子さんへの叙勲式(2013.6.24)

松村幸夫氏が亡くなりました(2013.4.9)

山口昌子さんに仏レジオン・ドヌール勲章(2013.1.10)

千野境子さんの新刊本(2012.10.20)

山路さん一周忌・「偲ぶ会」開かれる(2012.6.16)

山口昌子さんの新刊2冊(2012.4.28)

金田浩一呂氏 逝く(2011.7.23)

細野くんを悼む(2011.6.21)

山路さんとともに夕刊フジの終焉(2011.5.27)

小田孝治氏死去(2010.12.16)

「おれんじ気まま会」(2010.10.23)

山口昌子さんの新著「ドゴールのいるフランス」(2010.6.9)

「人間 井深大」(島谷泰彦著)が17年ぶりに文庫版で登場(2010.3.19)

山口昌子さんにフランス勲章(2010.1.31)

おれんじ会有志集合(2009.11.7)

恒例、山路邸2009新春(2009.1.2)

叔母に引導を渡したのは(2008.6.12)

「第3回おれんじ会」の写真(2008.6.5)

萩原正人氏 近況です(2008.5.15)

恒例、山路邸の新春(2008.1.2)

2007年追想録(2007年末)

40周年で馬見塚さんインタビュー記事(2007.11.5)

全舷のアルバム(2007.6.1)

2007 箱根で全舷だ!(2007.3.15)

2007新年の山路邸(2007.1.2)

島谷さんが書いた本(2006.11.10)

「おれんじ会」屋形船で船出(2006.5.20)

「屋形船で一杯」 5月20日(2006.3.23)

「明美ちゃん基金物語」のビデオ提供(2006.1.15)

古老、山路邸に年賀に集う2006(2006.1.2)

別府新社会部長の山路邸訪問(2005.10.19)

馬見塚さんから05年暑中見舞いです(2005.7.8)

出版記念パーティー3月12日に!

古老、山路邸に年賀に集うの図(2005.1.2)

山口昌子さんの便り

昌子さんを囲む会(2004.2.6)

馬見塚さん、脱稿しました(2004.5.7)

別府育郎記者のメール(2004.5.9)

「夕刊フジ青春物語」の出版社決まる!(2004.6.11)

尾登さんの通夜から始まった




「おれんじ会2024」に36人参集 

今年は、夕刊フジ創刊55周年。記念すべき「おれんじ会2024」が3月9日、東京・内幸町の「シーボニア」で開かれ、現役、OB合わせて36人が集まりました。覚えやすいように毎年創刊記念日の2月25日に開催すると決めたのですが、今年のカレンダーではレストラン休業日の日曜にあたったのでこの日に伸びました。

20名くらいだろうと見込んでいたら、参加者が一時40人を超え、レストランから「38人以上は断ってくれ」と言われていたくらいでしたので幹事は大慌てでしたが、なんとか定員ギリギリで座れての開催でした。

おれんじ会2024
(4列目左から)三保谷浩輝、村田雅裕、別府育郎、矢野将史、綾部栄一、志波吉勝、野津修敏、植野伸治、畑田栄一、長堀敏夫
(3列目左から)石川勉、(少し離れて)萩原正人、田中規雄、古閑正、今田忠臣
(2列目左から)佐藤実、森克蔵、小林毅、菊地克之、林栄三、本光繁幸、山路洋子、宮崎健、榎本福夫、太田英昭
(最前列左から)佐々木浩二、片山雅文、高山正之、下条勝也、加藤雅己
(この写真には三好英輔氏撮影のため、縣忠明氏も中途退席で写っていません。石川荘太郎、長野祐二氏も)  (敬称略)

今回、夕刊フジ代表が佐々木浩二氏から植野伸治氏に代わり、冒頭、「夕刊フジ創刊時の原点回帰でがんばる」との挨拶がありました。「おれんじ会」は創刊メンバーが本紙などに大幅に移動した、いわゆる「635」まで在籍した人たちの集まりです。新しい人にとってはかえって迷惑だろうということからですが、植野氏はその「635」に入社した世代とのことです。まさに隔世の感があります。

長野市からはるばる参加した縣忠明氏が郷土紙「信濃毎日」に載った山路愛山の記事を持参してくれたのをきっかけに、創刊時のトップ、永田照海。山路昭平という「怒鳴りまくりコンビ」の思い出話が相次ぎ、久しぶりに参加されたこの日の紅一点、山路洋子夫人もさぞかし懐かしかったであろうと斟酌しました。

整理部の志波吉勝さん力作の「おれんじ会新聞」もA4版8ページというボリュームで発行され、参加者に配布されました(以下で全ページを紹介)。「家の中20歩圏内で移動」「足腰弱り不参加」などの記述が目立ちました。創刊55年目ともなると加齢による事情もありますが、動けるうちはできるだけ集まろう、と思います。

◇ ◇ ◇

このほか、夕刊フジ現役記者氏が撮影してくれた、会場風景、全員のスナップ写真があります。写真共有サイトにアップしますので、個々にアクセスして見てください。近日中にメールで共有サイトへのURLを通知します。


2024-1

  「おれんじ会2024」1面

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  「おれんじ会2024」2面

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   「おれんじ会2024」3面

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   「おれんじ会2024」4面

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  「おれんじ会2024」5面

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  「おれんじ会2024」6面

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  「おれんじ会2024」7面

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  「おれんじ会2024」8面




山口昌子さん レジオン・ドヌール勲章オフィシエの叙勲伝達式 

【パリ=板東和正】元産経新聞パリ支局長でフランス在住のジャーナリスト、山口昌子さんのレジオン・ドヌール勲章オフィシエの叙勲伝達式が26日、パリ市内で開催された。

叙勲

山口昌子さんの叙勲伝達式。モーリス・グールドモンターニュ氏(左)と
下川眞樹太駐フランス日本国特命全権大使(右)(板東和正撮影)
山口さんは1990年5月から2011年9月まで産経新聞パリ支局長を務め、その後もパリに在住し、フリージャーナリストとして精力的にメディアへの発信を続けている。今年1月にはフランス政府から「卓越した功績」を表彰するレジオン・ドヌール勲章オフィシエを受章した。

叙勲伝達式は、山口さんの知人でシラク元大統領の外交顧問を務めたモーリス・グールドモンターニュ氏が受章をたたえるために主宰。伝達式の式典には同氏のほか、下川眞樹太(まきた)駐フランス日本国特命全権大使らも出席した。

山口さんは式典で「感無量だ」と喜びの言葉を述べ「フリージャーナリストとして働き続け、日仏関係の発展に貢献していく」と今後の抱負を語った。下川大使は「日本人は(山口さんの取材活動を通じて)フランスの日常生活だけではなく、現代政治や文化史を理解できた」とたたえた。

式典では、産経新聞社の近藤哲司社長からのお祝いの花束が山口さんに贈呈された。

◇ ◇ ◇

 レジオン・ドヌール勲章には シュヴァリエ Chevalier(5等)、オフィシエ Officier(4等)、コマンドゥール Commandeur(3等) グラントフィシエ Grand Officier(2等)、グランクロワ Grand-Croix(1等) − があり、山口さんは2013年1月シュヴァリエを叙勲しているので今回さらに一つ上に昇格したことになる。

昌子さんは20年以上にわたる在任中の歴代大統領、ミッテラン、シラク、サルコジ、オランド、マクロンの時代ごとの出来事をまとめた現代史クロニクル「パリ日記」全5巻を藤原書店から出版中で、最終の第5巻が出版されたのを機に6月に帰国していました。

筆者(宮崎)は八ケ岳に居るので、下山するとき途中の勝沼で桃を買って届けがてら会うことにしていましたが今年は猛暑で桃が不作、手に入らず伸び伸びになるうち昌子さんは8月パリに戻りました。そのとき、全巻出版したので大量の資料を処分して帰国するとのことでした。さて、どうなることか。




「おれんじ会2023」 4年ぶりに開催 

「おれんじ会2023」が創刊記念日に当たる2月25日、東京・内幸町の「シーボニア」で開かれ、現役、OB合わせて33人が集まりました。

2019年の「夕刊フジ創刊50周年の集い」のあと始まったコロナ禍で集まるのが遠慮されるようになりました。それでも、21年に「デジタル de おれんじ会」をネット上で開催するなどして来たものの、顔を合わせての開催は実に4年ぶりです。

おれんじ会2023
(最後列左から)別府育郎、菊池克之、田中健雄、綾部栄一、鳥居洋介、秋谷哲、加藤雅己、大見信昭、三保谷浩輝、野津修敏、島田修、宮城晴昭、長野祐二、志波吉勝、畑田栄一、佐藤将臣
(前から2列目)佐藤実、石川勉、町田達生、本光繁幸、石川荘太郎、森克蔵、(森さんの右上)小林毅、山口尚毅、田中規雄、宮崎健、古閑正、佐々木浩二 
(最前列左から)萩原正人、高山正之、佐伯浩明、山路洋子  (敬称略)

当初30名の参加予定でしたが、キャンセルが出て不安でした。しかしそれを上回る、当日駆けつけ組が多く、席を継ぎ足すほどの盛況になりました。これまで整理部の志波吉勝さん力作の「おれんじ会新聞号外」をA4版で発行してきましたが、今回は現役整理マンが夕刊フジと同じタブロイド版で制作してくれて、亡くなった島谷康彦、川島吉雄、小林誠3氏の追悼文から、はがきに近況を書いてくれたOBの一言も全文掲載、という豪華版です。

これまではOB有志の幹事で開催してきましたが、今回から佐々木浩二・夕刊フジ代表以下、現役世代の幹事に仕切ってもらうことになりました。アナログ世代は出欠は往復はがき、写真は郵送という発想ですが、デジタル世代だと会場風景や集合写真は「写真共有サイトにアップして、OBにはURLをメールで送って各自でアクセスしてもらって見てもらおう」ということになります。大変な様変わりです。

乾杯

席を継ぎ足して33人の参加。
参会した全員に近況報告などをお話しいただきましたが、初参加のお二人について少し紹介させていただきます。

長野祐二さん。年次は忘れましたが出席組に名前がある別府育郎、田中規雄、三保谷浩輝、佐々木浩二諸氏と同じく夕刊フジ独自採用組です。彼らよりは年上ですが入社して3、4年後「作家になりたいので辞める」と退社しました。

しばらくたって本紙文化部編集委員をしている三保谷さんの下で文芸コラムニストとして書評などを書きながら仕事をしているとは聞いていたものの、直接話す機会はなかったのですが、人づてに夕刊フジを懐かしがっていると知り連絡を取ったところ、『小説 三島由紀夫』や『地獄譚』や『プレイボーイ入門―現代女人素描3 (1984年)』など著作が数冊届きました。

驚いたのは『地獄譚』で、小説とは言うもののストリップ小屋、それも関東から全国各地を巡り歩いてのドキュメントタッチです。そんな趣味があったのかと感心する一方、私も三重県津支局での新人時代に毎日新聞記者の先輩に連れられて行った四日市のストリップ小屋で踊り子の照明係を仰せつかったことがあり、「あの瞬間」、場内に潜んでいるかもしれない警察官を避けてスポットライトをフェードアウトする技術の「習得」に励んだことを思い出しました。

長野さんとはその後「今や文学は死んだ」と言う一点で一致しました。芥川・直木賞選考会では毎回、金田浩一呂に連れられて築地の「新喜楽」に通い、控室で発表を自分の予想と合わせて心待ちにしていたのに、今や一遍の候補作とて読んだことがない有様です。

石川勉さん。夕刊フジ営業局長をしているとき「ZAKZAK」を立ち上げたことは「デジタル de おれんじ会」(2021年)の「OB会報」で書きました。その時上から「スタート月から黒字にしろ」と無理難題のパワハラを受けたのですが、それをクリアできたのは彼のおかげです。

現在多くの新聞は電子版を持っています。本来「夕刊フジデジタル版」とするのが普通です。なぜ「ZAKZAK」としたかといえば、夕刊フジにはピンク面があるからです。それまで別会社だった夕刊フジはこのときに産経の内局になっていました。ピンク面が桜田門の手入れを受けたら直に産経本紙の名前が出る。これを避けるための窮余の一策でした。現に細谷洋一報道部長が宇能鴻一郎の連載で警視庁に呼ばれたことがあります。

そのピンク面の集稿で関西の風俗業界に多くの得意先を持っていたのが大阪から呼ばれて東京の広告部長をしていた石川勉で、通常の紙の広告料金に少し上乗せするとネット広告が打てるという便法を編み出してくれました。これで過大なノルマがクリアできました。いわば恩人なのです。

今回の「おれんじ会」で大阪も懐かしむ人が毎年集まってOB会を開いていることを知りました。会長は辻元幸夫さん。彼はこちらが報道部長のときあちらは大阪の報道部長。毎日連絡を取り合うのですが「東京は三浦和義のロス疑惑で行く」というと「そんならちもない話は大阪ではあきまへんねん。こっちははっきりしてる山口組と一和会のドンパチで行きまっさ」とやりあった仲です。

「次の大阪の集まりには生きておったら参加しまっさ」と言いました。

(宮崎 健)

このほか、全員のスピーチ写真、スナップがあります。写真共有サイトにアップしますので、個々にアクセスして見てください。近日中にメールで共有サイトへのURLを通知します。

以下は当日配られた「おれんじ会新聞」です。現役整理マンが制作してくれた豪華タブロイド版4枚。亡くなられたOBの追悼文、OB諸氏の近況が山盛りです。


2023-1

  「おれんじ会2023」特別版1面

2023-2

  「おれんじ会2023」特別版2面

2023-3

   「おれんじ会2023」特別版3面

2023-4

   「おれんじ会2023」特別版4面




おれんじ会最長老、島谷康彦さんが亡くなりました

島谷康彦

島谷康彦さん
(「夕刊フジ創刊50周年の集い」から)
夕刊フジ創刊時から経済担当として活躍された島谷康彦さんが2022年8月16日亡くなりました。90歳と2か月。

ゆき子夫人の話では「最近少し手足が不自由でしたが元気にしておりました。当日はお医者さんに来てもらって看取ってもらいましたが、家族そろって見守るなか眠るように穏やかに逝きました。老衰で、大往生でした」とのこと。

夕刊フジOBでは最長老、おれんじ会の集まりにはほとんど皆勤で、いつも創刊時の話になるととどまることなく話が弾みました。夫人は「夕刊フジで山路さん以下いい人に恵まれて幸せな人生を過ごしたと思います。皆さんによろしくお伝えください」と話されていました。

内橋克人と佐高信を発掘したのは島谷さん

内橋克人

内橋克人
経済評論家、内橋 克人(うちはし かつと、1932年7月2日 - 2021年9月1日)は、日本の高度経済成長を支えた現場の技術者たちを活写した『匠の時代』で有名で、穏やかな語り口でユニークな評論で定評がありました。

彼は神戸新聞記者を経て1967年からフリーとなったもののまったく無名で、雌伏しているとき発掘したのが島谷さんです。『匠の時代』が夕刊フジ連載記事だったことはあまり知られていませんが昭和50年代爆発的人気を博しました。

東海道新幹線,青函トンネル、ATCの開発など、未曾有の困難を乗り越えて、巨大プロジェクトを成功に導いた国鉄技術陣。医療に最新技術を導入し、人の命を救うため、人工補助肝臓を開発した倉敷中央病院とクラレ。人工透析装置に飛躍的前進をもたらした東京女子医大「腎臓センター」と東レ。松下幸之助の薫陶のもと、数々の新発明を世に送り出した松下電器など、最先端の現場を活写し、技術者たちの熱気を伝えたドキュメントは今でも「名作」の誉高く、現在でもアマゾンで購入者が後をたたない作品です。

ネットを見るといまではリタイアした人だろうが「昭和50年代、仕事帰りの電車の中で、夕刊フジ連載の『匠の時代』を愛読した。当時は企業の研究部門の端くれにいて、毎夕、これを読むのが楽しみだった」などの書き込みが散見されます。

産経新聞東京本社の社屋の通りを挟んで向かい側に経団連ビルがありますが、昼頃になると秘書と見られる女性が販売部に夕刊フジを買いに来るほどでした。上司から命じられてでしょうが、多くの経営者にも読まていて、売店に並ぶのが待ちきれないという程でした。

佐高信

佐高信
今では独特の毒舌評論で鳴らす佐高信もまた島谷さんを「恩人」と呼ぶ一人です。誰かの出版パーティーで一緒になったとき筆者(宮崎)が聞いたセリフです。彼は山形県酒田市で高校の教師をしていたのですが、一念発起して経済評論で身を立てるべく上京してきました。まったく無名の彼を拾い上げたのが内橋克人で、彼がまた島谷さんを紹介、なんとかマスコミで食えるようにと働きかけたのです。

夕刊フジ編集局内を島谷さんが内橋克人と佐高信を連れて藤村邦苗編集局次長やデスクに挨拶に回っていた姿を今でも覚えています。

「孫はものすごくべっぴんさんだよ」

「夕刊フジ50周年の集い」のとき、島谷さんの口から何度も聞かされました。今回、訃報を受けて電話した折、ゆき子夫人と島谷さんの長女が大怪我したときの話になりました。

「匠の時代」の連載中だったと思いますが、自宅近くの甲州街道だったか五日市街道だったかで当時4,5歳だった長女(名前を失念)がクルマにはねられるという事故がありました。4,5日意識不明で生死の境をさまよってなんとか生還したのですが、当時の山路昭平編集局長が下した判断が島谷さんの出勤禁止命令です。律儀な性格で無理しても出勤してくるだろうとよんで、「子供の看病に専念するよう」との親心です。

同時に私には「島谷家担当」が命じられ、毎日病院に通って病状報告と家族の援助をするようにと言われました。当時、日吉の社宅にいたのですが、毎日午後に外科病院に通っていました。家内も食事を作って届けるなどしたのでよく知っている仲なので、今回ゆき子夫人の電話に出て昔話をしました。

東アジアの大家族制度が離婚を招く

余話ですが、九死に一生を得たその娘さんの後日談で島谷さんと表題のようなことを話し合いました。事故以来娘さんとは会ったことはないのですが、島谷さんの口から「娘は元気になってネパール人と結婚して向こうにいる」と聞きました。そう、それは良かったと言ったのですが、3,4年後「離婚した」と聞かされました。

そのとき離婚原因の一つであるアジアの大家族制度について文化人類学的会話をしました。ネパール、ブータン、中国、朝鮮など今でもそうですが、こうした国では日本人と結婚するということは「成功者」とみなされるようです。それはいいのですが、これが実は大変なことになるのです。

多くの親族がみな頼るようになるとのこと。具体的例を聞きましたが、みな日本に行きたがり話を持ちかけてき来るようになったそうです。ところがこの日本旅行は航空機代、ホテル滞在費、土産代まで日本人側の負担でそんなことは向こうでは当たり前のこととされているそうです。

こうした国との国際結婚で破局に至る例をよく聞きますが、報道されないけれどこういうことが原因になっているのではないかというのが二人の結論でした。

ゆき子夫人とはその娘さんの話になり、今はすぐ近くに住んでいて、今回の島谷さんの臨終に際しても駆けつけて皆で見送ったとのことでした。

島谷さんほど夕刊フジの何から何まで「心酔」していた人はいないでしょう。強力な夕刊フジの「助っ人」を失った思いです。




山口昌子さんの新著「パリ日記」を紹介

コロナ禍で日本での年越しもままならず、パリに”塩漬け”になっている山口昌子さんですが、執筆意欲は衰えず、2021年9月下旬、新著を出版しました。

一昨年正月、コロナ禍直前に帰国した際には「資料が向こうにあるので戻る」と言っていましたが、なるほど、大したボリュームです。全体のタイトルは「パリ日記」 といい、全5巻にも及ぶ大作です。今回出版されたのはそのうちの第1巻「ミッテランの時代」(1990年―1995年)で、今後順次出版されます。

「パリ日記」

山口昌子さん、新著を紹介する「おれんじ会」新聞です。

◇宮崎正弘氏の書評◇

山口昌子さんの新著について、保守の論客、宮崎正弘氏が、自身の記憶と重ねて縷々論評を加えていますので、以下に紹介します。(10月8日)

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 花の都パリから国政政治を見つめた現代史の見聞録
  世界はじつに激動に満ちていた時代。歴代仏大統領は何をしたのか
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山口昌子『パリ日記 特派員が見た現代史記録』(藤原書店)。この日記は全五巻になる。第一巻が、本書で「ミッテランの時代」である。
次にシラク時代が二巻に分かれ、第四巻がサルコジ、そして第五巻はオランド、マクロンという構成で、現代史を日記が活写する。ソ連解体、湾岸戦争、ユーゴ紛争、パリから世界史が生まれた瞬間を、 フランスを視座に世界史の激動を記者の眼でみた感想、感激、失望を綴る。

パリ留学と言えば、じつに夥しい日本人がフランス文学に、絵画に、音楽に憧れて巴里を目指した。ロストジェネレーションと呼ばれた時代のヘ ミングウェイも、巴里にあった。戦後、いちはやくフランスへ留学したのは、岡潔、桶谷繁雄ら数学者、 村松剛、遠藤周作、篠沢秀雄ら文学者、音楽では黛敏郎、画家では林武ら がいる。

若き日の三島由紀夫が世界一周の途次に、巴里でドルの闇両替の詐欺に あい、留学中だった黛敏郎の世話になったという逸話も有名だろう。竹本忠雄はマルロォとの親交を通じて、多くを翻訳され、いまも健筆をふるう。

そして記憶が間違っていなければ、村松、竹本の両氏は仏蘭西政府から 騎士勲章を受けた。著者の山口女史もまた。

1967年頃から、パリで五月革命とかの左翼ヒッピー文化が猖獗を極 め、日本にも伝播した時代があった。五木寛之らは盛んにパリへ行って、 五月革命を背景とする作品を書いていた。

評者(宮崎)はといえば、その世代のあと、サルトルやらヴォバワール の時代が黄昏れつつあった実存主義斜陽の頃で,最初に行ったのは半世紀前だった。

「花の都」と言われた巴里は薄暗く、町は活気がなく、モンマルトルには画家の卵たちが蝟集して観光客に習作を売りつけていた。夜はムーラン ルージュだけが派手なネオン、率直に言って、巴里は失望に変わった。

じつは山口さんのことは、よく藤島泰輔氏から聞かされた。というのも、藤島さんは、パリに豪華マンションを購入し、よくパリへ行って競馬場通い。それが昂じて日本で馬主(うまぬし)になった。持ち馬のランニングフリーが天皇賞を二回という幸運に恵まれ、絢爛豪華 なパーティをオークラでも開催した。

その頃、よく「パリへ遊びに来いよ」と誘われた。藤島さんのパリの豪華マンションは、その後、日本政府が磯村尚徳氏をパ リ日本文化会館初代館長に指名したおり、その館長宿舎となった。

著者の山口昌子さんは1990年から2011年まで21年間に亘って 産経新聞パリ支局長として滞在し、数多くの記事を書いた。現代史の目撃者であり,上田ボーン賞に輝く生粋のジャーナリストである。

その彼女が巴里で何を見たのか?
なにしろ本書は浩瀚、全部を読み切るには結構時間がかかるが、個人的 には389pからのベルナール・フランクとのインタビューが面白く刺激 的だった。

フランクはサンスクリットを学んでインドに興味を持ち、やがて仏教が中 国を経由して日本へ行った。その仏像、観応菩薩などの宗教的雰囲気を、日本学者としてのフランクが ラフカデオ・ハーンに作品群に見出すという精神の遍歴を興味深く読んだ。

第U巻「シラクの時代」発売

2巻

「パリ日記」2巻
2021年12月、「パリ日記」第2巻「シラクの時代」(1995.5-2002.5)が発売されました。ユーゴ紛争集結、「ユーロ」の誕生、そして「9・11」事件の勃発までのシラク大統領の時代です。

この間にはパパラッチに追われたダイアナ王妃の事故死がありましたが、これも昌子さんの筆で伝えられたのかという”発見”がありました。著書には何枚か「時の人」との並立写真が挿入されています。この巻の主、シラク大統領との写真のほか大相撲のパリ場所でしょうが、羽織袴姿の貴乃花関との記念写真もあります。この人、今は相撲界を追われるように去っていますから時代の移り変わりに思いを馳せました。

日記には第1巻の主、ミッテランが死の一週間前に見せた「最後の晩餐」の描写があります。「骨に転移のがんの激痛に襲われながら一皿目の生ガキを食べ終わると、目を閉じ、痛みが去るのを待って、次にエジプトから取り寄せたスアオホオジロを丸ごとかじった。肉が美味なこの鳥を食べ終わると”エクスタシーの表情”を浮かべた」というから、大変な美食家がいたものです。(宮崎健記

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第1巻同様、評論家、宮崎吉弘氏の書評が出ましたので紹介します(2022年1月4日)

山口昌子『パリ日記(2)シラクの時代U』(藤原書店) @@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
 シラクは知日家で大相撲ファンだったが、元寇の防塁を見たいと熱望していた
  マルロォはニセ知識人  サルトルの「ドゴールは小ヒトラー」発言に平手打ち

ミッテランの第T巻から、本巻は第二回配本でシラクの時代 (1995−2002)の第一部である。浩瀚820ページに3段組みの活字がぎっしり。それだけ歴史がつまった本である。特派員のパリ日記。しかし随筆でもなく、克明な『日記』には違いないが、本書は現代史の資料である。いまから思えば平和で多少ゆとりのあった、あの1980年代の風景と雰 囲気が行間から甦ってくる。

 山口さんは産経パリ特派員として滞在21年に及び、数々のスクープを飛ばしつつ、パリの政界の動きを歴史家の目を備えて観察してきた。ボー ン・上田國際記者賞受賞のジャーナリストだ。

 その一つは、ドゴール大統領が池田首相をして「トランジスタのセールスマン」と発言した事実はなかったこと、仏外務省資料や当時のフランスの新聞を渉猟した結果であり、またエリーゼ宮報道官だったピエール・ルイ・ブランは「将軍は皮肉屋ではあったが、一国の首相に対して礼を欠いたことを言うはずなし」と強く否定した(445p)

時空を超えて記述は、ドゴール、マルロォ、サルトル、そして若き日のジェルマン・トーマとのインタビューも記載されている。シラクは大相撲ファンで知られたが、日本の文化に並々ならぬ理解を示 した。それは表面的な仏像観賞のレベルではない。武士道精神に引かれる からなのである。

 あの蒙古を破った鎌倉武士、その防塁をシラクは見たいと言った。訪日時に九州場所の相撲を観戦したが、「熱望したのが元寇の記念碑訪問。 『なぜ日本は二度までも外敵を防げたか』の疑問からだ」。時間が合わず、ジュペ首相訪日時に代理見学を要請したほどだった。

 この伝統は騎士道を重んじたドゴール、マルロォからシラクへと繋が る。だから次の何気ない記述を発見すると、フランスの現代史が日本の古代から中世の精神、そのモラルに繋がっていることに、きっと読者は愕然 となるだろう。

 ドゴールは書いた。「フランスは剣の一撃から生まれた」。このドゴールを日本の左翼文化人は短絡的に「軍人だから嫌い」だっ た。日本のドゴール評価は村松剛、竹本忠雄らを除いて低いまま、そこで 山口さんは産経新聞に「ドゴール像の格差」を長期連載した。

 「45年にマルロォがサルトルとラジオ論争した時、サルトルがドゴー ルを「小ヒトラー」と呼び、マルロォが平手打ちを食らわした」。

 サルトルのような似非知識人がフランスでも大手を振っていたから、日本にも亜流が輩出した。その典型が大江健三郎だろう。フランスの左翼はナチスと戦わず、宥和政策にも反対せず、レジスタン スにも参加せず、宥和政策に反対しつづけた。ドゴールの方がはるかに彼らより分析力、洞察に優れていた故にドゴールに嫉妬し、憎悪した」 (422p)

このドゴールの政治精神がシラク時代にも脈々と生きていた。いまのマクロン? 現代フランスは移民が入りすぎて歴史観が改竄されつつあり、シラク時代の精神は遠くなりつつある。

シャネルやルイ・ビュトンがフランスと思っている日本人観光客が主流の現状。とても相互文化理解には浅薄な関心しかないのだろう。 

第W巻「サルコジの時代2007.5-2011.9)について、評論家、宮崎吉弘氏の書評が出ましたので紹介します(2022年6月3日)

3月に「第V巻シラクの時代2(2002.5ー2007.4)」が発刊されましたがここでは省略します。この間、ロシアによるウクライナ侵攻というエポックメーキングな出来事がありました。サルコジの時代、ロシアはジョージア(グルジア)に侵攻していて、これが現在のウクライナ侵攻の下敷きであることが「パリ日記」から読み取れると書評です。

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山口昌子『パリ日記(4)サルコジの時代』(藤原書店)
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4巻

「パリ日記」W巻

 本書の正式題名は長くて、『パリ日記 特派員が見た現代史記録 1990〜2021(4)サルコジの時代、2007.5〜2011. 9』である。  著者は産経新聞パリ特派員として長らくパリに滞在し、冷静に克明に、 しかもフットワークに強くフランスばかりか欧州各地を飛びあるき、現代史を目撃するかたちで、同時進行の政治劇を追った。シリーズ第四巻となる。

 フランスはドゴール、ジスカール、ミッテラン、シラクと皆が禿頭だっ たが、サルコジは頭髪豊かで非エリート出身だった。彼は異色の政治家だったが、出だしから悪評。 とくに「コキュ(女房を寝取られた男)」とされ、就任直後に離婚、日を置 かないでシングルマザーと再婚、親米派で豪華な夏期休暇など毎日メディ アから「サルコ」と冷やかされた。日本でも天皇晩餐会をドタキャンしたので評判が悪い。

サルコジの時代の世界史的事件と言えば、リーマン ショック、グルジア(ジョージア)侵攻、そして311テロ事件。サルコジは政治臭いを鋭敏にかぎつけ、難局と判断すれば、まっさきに調停役として能力を発揮した。2008年のグルジアとロシアとの戦争以後、ウクライナ 戦争を予見していた。

 ウクライナ戦争の前兆ともいうべき『グルジア紛争』は、89年ベルリン の壁が崩壊し、ソ連が瓦解してから二十年後のことだった。当該箇所はつぎの通り。

 

 「ロシアは帝政ロシア時代もソ連時代も、そしてロシア連邦時代もヨー ロッパの一員であり、陸続きの隣国である(中略)野望に満ちたウラジー ミル・プーチンによって(大国としての存在が)密かに息を吹き返しつつ あった。

2008年8月、「グルジア軍が独立を主張する南オセチアに進攻し、ロシア軍が待っていましたとばかりに介入してグルジア軍と戦闘を開始した。

「西側の『冷戦勝利者』にとっては、嫌な予感のする大ニュースだった」

 すぐにサルコジはメドベージェフ(当時はロシア大統領だが、プーチン の傀儡といわれた)に電話し、和平原則尊重の言質を取り付け、ブッシュ大 統領とは電話で、訪仏したライス国務長官とは面談し、直後にライスはト ビリシへ飛び、五日後にはNATO臨時外相会談にこぎ着ける。

「サルコジの迅速な行動はこの時期、フランスがEU議長国、サルコジが EU議長だったことにもよる」

 結果的にロシアの目標がグルジアのNATO加盟阻止にあり、NATO 首脳会議では「将来のNATO加盟で原則合意した。その後、オセチア進攻に失敗したグルジアのサアカシビリ大統領は失脚。立場がなくなると、 ウクライナへ逃亡し、なぜか簡単に国籍を取得しオデッサ州知事となっ た。それさえ追われ、サアカシビリ大統領はグルジアに帰国したら拘束された。

 山口氏は指摘する。
「グルジアをウクライナに置き換えると、ロシアのウクライナ戦争の目的 が明白に浮かび上がってくる」

 同年九月になると「今後、クリミア半島や(モルドバの)ドニエストル 地方など旧ソ蓮構成諸国のロシア系住民地域が次なる標的になる」とク シュネル仏外相は警告した。
 「この警告は不幸にして当たった。クリミアは2014年にロシアに併合さ れ、ドニエストル地方ではロシア兵の展開がつづいている」

つまりロシアの次の標的はモルドバということになる。
ところが当時のフランスではアフガニスタンのことと、直後に起きたリー マンショックに話題が集中し、グルジアは忘れられた。ほかの話題と言えば、ロシアのオルガルヒのフランスにおける「爆買い」だった。

 NBAブルックリン・ネッツのオーナーでもありニッケル王として世界 的な大富豪のミハイル・プロポロフは南仏コートタジュールの世界一高い 別荘を購入した。敷地8ヘクタール、庭師が毎日五十人必要という元ベルギー国王の御殿だった。買値は800億円。アブラモウィッツも購入候補リストに入っていた。プロポロフもアブラモウィッツもともにユダヤ人オルガルヒである。サルコジもハンガリー移民の子、ユダヤ系三世だ。

 本書を読むと日本人の感覚からは理解できない欧州政治の駆け引き、マ キャベリズムの現場の空気が伝わってくる。 

  




別府育郎さんの新著「哀愁」を紹介

1面

別府育郎著『哀愁 1964 年東京五輪 三つの物語』

別府育郎さんの本については、同じく夕刊フジで同僚であった田中規雄・「産経抄」子が2021年6月27日の「産経抄」で次のような記事を書いていますので紹介します。

産経抄 (6月27日)

NHKアナウンサーによる実況は悲鳴に近い。〈日本の円谷、あと250メートル。ヒートリーが差を詰めました。2位か3位か。銀メダルか銅メダルか。日本の名誉をかけて。円谷危ない…〉。昭和39(1964)年東京五輪のマラソンである。

 ▼国立競技場のトラックでヒートリー(英国)に抜かれるまで、円谷幸吉はその猛追に気づかなかったとされる。「決して後ろを振り返るな」という父の教えを守ったからだ、とも言われる。振り返っていたなら、あるいはメダルの色が銅から銀に変わっただろうか。

 ▼円谷は真相を語ることなく、43年1月に自ら命を絶った。その年、メキシコ五輪のマラソンで銀メダルを手にした君原健二氏は、レース終盤、普段なら顧みないはずの後ろをなぜか振り返った。「円谷さんの無念、教訓が私を振り返らせたのではないでしょうか」

 ▼追い上げる3位の選手が見え、闘志に火がついたという。「円谷さんがメキシコで欲しかったのは…金か銀メダルだったはずですから」。小欄の先輩でもある別府育郎氏の近著『哀愁 1964年東京五輪 三つの物語』(ベースボール・マガジン)から拝借した。

 ▼いつの世も努力の総量が明暗を分けるとはかぎらない。「運じゃないですかね」。陸上の日本選手権男子100メートルで3位に滑り込んだ、日本記録保持者(9秒95)の山県亮太選手がそう語っていた。4位とは僅差、5位の桐生祥秀選手とも100分の1秒差という。

 ▼東京五輪代表の当落を分けた劇的で残酷な時の刻みである。「この日、この一瞬」に全てを懸けた若者が笑い、夢に破れた。ケガがなければ。コロナ禍がなければ。そんな一切の仮定と言い訳を拒む「勝利の女神」の非情な一面を見る思いがする。






『デジタル de おれんじ会2021』開催

夕刊フジOBの皆さん、いががお過ごしでしょうか。「創刊50周年の集い」を2019年2月25日に開催したところ、大勢の方に参集いただき、では翌年も・・・と「おれんじ会50+1」を予定したところで新型コロナのに見舞われて中止、翌年も収まる気配なくまた中止。

コロナに負けていられないと「デジタル de おれんじ会2021」の開催案内をしたところ、これまた大勢の方々から寄稿いただきました。

多くのOBは大手町を出ておられますが一様に夕刊フジへの懐旧の情もだしがたく、また新社屋に残っている方も夕刊フジが輩出した人材の豊かさを実感していることがひしひしと伝わってくる文面でした。

夕刊フジ含め新聞という活字文化にとって現状はまさに氷河期で、中央紙、地方紙とも軒並み赤字、新聞記者という職業は近く姿を消すだろうと言われています。

佐々木浩二・夕刊フジ代表の寄稿ではコロナ禍で駅売りの売店がなくなり売る場所すらなくなった由。今後は夕刊フジという活字媒体の”主戦場”を「ZAKZAK」というデジタル分野に移行するということです。

その「ZAKZAK」は25年前に夕刊フジ営業局が立ち上げたものです。他の新聞社でデジタル紙面はほとんどなく、ダントツの早さでした。当時電通にはデジタル局も存在しませんでしたが、今では新聞、テレビメディアを抜いてインターネットがトップに躍り出ました。扱い高はなんと2兆2290億円(全国)です。

そこで”オレンジ色のニクい奴”、「ZAKZAK」誕生のいきさつを紹介することにしました。12ページもの紙面編集にあたったのは整理部の志波吉勝氏です。

以下は『デジタル de おれんじ会2021』の特別紙面12ページです
1面

 『デジタル de おれんじ会2021』1面

2面

  『デジタル de おれんじ会2021』2面

3面

   『デジタル de おれんじ会2021』3面

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   『デジタル de おれんじ会2021』4面

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  『デジタル de おれんじ会2021』5面

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  『デジタル de おれんじ会2021』6面

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 『デジタル de おれんじ会2021』7面

8面

  『デジタル de おれんじ会2021』8面

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   『デジタル de おれんじ会2021』9面

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   『デジタル de おれんじ会2021』10面

11面

  『デジタル de おれんじ会2021』11面

12面

  『デジタル de おれんじ会2021』12面




太田英昭さんの新著「フジテレビプロデューサー血風録」

太田英昭さんといえば、現在産経新聞会長から産経の英字媒体「Japan Foward」の代表理事ですが、若い頃フジテレビから夕刊フジに出向してきて4年間活躍し、今も「私の人生は夕刊フジが原点です」と言ってくれるおれんじ会員です。

フジテレビに戻った後テレビプロデューサーとして、「おはよう!ナイスデイ」「なんてったって好奇心」「ザ・ノンフィクション」「小川宏ショー」「めざましテレビ」「プライムニュース」と多くの番組を作り出しました。

血風禄
太田英昭さんのテレビ人生を振り返った
「フジテレビプロデューサー血風録」
その長いテレビ人生を総括、歩みを振り返った新著「フジテレビプロデューサー血風録」(幻冬舎、定価1430円)を上梓しました。

読んでみて共感多々ありました。媒体が違うので当時は気づきませんでしたが、夕刊フジと同じ事件を追いかけているのです。三浦和義の「疑惑の銃弾、ロス疑惑事件」「御巣鷹山JALジャンボ機墜落事故」「山口組Vs一和会抗争」「昭和天皇崩御」・・・と夕刊フジが輪転機をフル回転させていた時、彼もまたフジテレビで不眠不休で最前線に出ていたわけです。

もう一つ感心したのは、仕事を通じて実に多彩な人脈を構築していることです。多すぎて名前を上げるのは省きますが、この時代、芸能レポーターから政治家までテレビ画面に登場した人たちから裏方の映像作家、台本作者に至るまで「テレビ全盛時代」を支えた人名が何十人と登場します。

当時フジテレビからは太田さんの他、広瀬さん、浪久さんなど5人ほどが出向という形で夕刊フジにやってきましたが、皆、戻った後も夕刊フジの時代の同僚と親交を重ねて局長にまで昇進しています。本によると、この時代太田さんは「青木湖スキー客バス転落事故」の現場や、カスピ海沿いのアルメニアなどに3週間の取材旅行、「ぴいぷる」でチック・コリアや秋吉敏子を書いたそうです。

筆者(宮崎)は当時「ぴいぷる」や「ワイド面」を担当していたのですが、記憶にあるのは彼の原稿に手を入れている間、そばに佇立していた律儀な姿です。その後テレビでいろんな台本やト書に朱を入れるようになったようですが、夕刊フジでの経験が生きたようで、新著を恵送頂いた挨拶状にも「夕刊フジは、今も私の原点です」と書き添えてありました。





安藤徹カメラマン逝く

熱血カメラマンとして数々のエピソードを残した写真部の安藤徹さんが2020年5月17日亡くなりました。

夫人から夕刊フジの佐々木編集局長宛に手紙を頂戴して判明しました。啓子夫人の手紙には、

安藤徹
安藤徹さん(昨年2月25日の
「夕刊フジ創刊50周年の集い」から)
「昨年2月の創刊50周年の集いに出席すべく、何日も前から体調を整え、当日張り切って出かけたのが、つい昨日のように思い出され ます。夕刊フジ創立メンバーだったことは生涯、夫の大きな誇りでした。折りに触れいろいろな思い出を楽しげに話してくれたものです」

私(宮崎)は「ぴいぷる」の取材で安藤カメラマンと組んで出かけたことがある。女優だったが、どこかの喫茶店で待ち合わせた。最初は一枚もシャ ッターを切らないので心配したが、話が佳境に入り女優が乗ってくると、やおらシャッターを切り始める。

ローアングルが好きで喫茶店の床に腹ばいになり、仰向けになり、ごろごろと転がりながら雨あられとシャッターの連写である。まわりのお客さんはあっけに とられたように眺めている中で36枚撮りパトローネにして10数本は撮るのが安藤流であった。

長いこと暗室にこもって届けられるのは多くて3枚。たいてい1,2枚で「これで行ってくれ」と言われたものである。クレームなどつけようがなかった。

新珠三千代という美人女優がいた。「ぴいぷる」で取り上げたとき、所属事務所から「顔の左側から(右だったかもしれない)は撮らないよう」にという注文がついた。 取材記者は誰か忘れたが、同行する安藤カメラマンに「反対側から撮るように」注文をつけた。

山口組三代目組長、田岡一雄親分の愛人という噂がもっぱらで、所属事務所も山口組経営とかで「強面の」要求だった。果たして「どうしてくれる」という脅しが来た が平気だった。何しろ警視庁キャップは連続企業爆破事件スクープで新聞協会賞を受賞した福井惇さん、夕刊フジ報道部長はこれまたサツには強い細谷洋一さん、夕刊 フジの警察庁担当は榎並達さん(警視総監から参議院入り法務大臣を務めた秦野章秘書)という強力メンバーが揃っていた。

このときも「ちょっと来てくれ」との要求だったが、デスクの私が行くこともなく収まった。上記の人たちが押さえつけてくれたのである。いまグーグルを見 ると確かにこの女優の画像は正面か右からの写真が多い。「生涯、私生活を明かすことなく、独身‥」とある。

安藤さんと写真ではもうひとつヤクザとのからみがある。夕刊フジの若者向けの紙面「do」を担当していたとき、学生記者が「帝国ホテルでヤクザが分列行進をする」と いう話を聞きつけてきた。これは素人には無理な撮影だと安藤さんに依頼した。

右翼の大行社結成総会で、ヤクザが隊旗を掲げて帝国ホテルのロビー内を分列行進する様は、安藤さんの小型カメラで撮影され、「親分衆に敬礼!」という見出しで 掲載された。大反響を呼び今で言うワイドショー3,4局から使わせてほしいと電話が入った。

この時代、ヤクザの看板の付替えが流行っていた。大行社は現在も霞が関で街宣車を先頭に大音響でがなり立てているのを目にするが、元を言えば稲川会系三本杉 一家の親分が政治結社に仕立てた組織である。

このときも「政治結社を”親分衆に敬礼”とはなんだ」ねじ込まれた。芝公園の横の本部によびつけられ、細谷さんと二人で出かけた。ビルの4階のエレベーターを降 りるとモヒカン刈りの若い衆が列をつくっていてその間を小突かれるようにして奥の間に通された。

こちらもむざむざと殴られるのは嫌だから用意はしていた。ビルの前の通りにはマル暴担当のデカの覆面パトがいたし、どこかで見張っているということだった。 このとき親分の横にいた相談役というのが陸軍士官学校くずれの男であることも調べ上げていた。戦後公職追放にあった親父は陸士で国漢文科の教授をしていた。 「国漢文」は必須なので陸士にいたということは親父の生徒である。案の定、ころりと態度が変わって無事二人で帰社した。

歌が得意で自称「安藤ウイリアムズ」。忘年会やピアノがあるバーだとかならずどこからか現れてマイクを握った。「ダニーボーイ」「ム ーンリバー」「ホワイトクリスマス」を聞くと、今でも「安ちゃん」の陶酔したような表情と、甘い(多分)歌声を思い出す。

安藤徹さんのこと 萩原 正人(投稿日2020/06/22)

小生は野球の取材経験はありませんが、ドームが出来る前の円山球場時代、巨人の札幌シリーズでC版だったかC版☆の速報のため、安藤さんと何度か 札幌へ 出張したことがあります。

その季節、札幌に咲くアカシア(ニセアカシア)や気候が生まれ故郷の大連とよく似ていると たいそう気に入っていたようで、夜はすすきの(薄野)あたりで楽しい酒を飲みました。 “アンドウ・ウイリアムス”の十八番は「マイウェイ」でした。

年に一度の札幌での巨人戦は大人気、平日のデーゲームにもかかわらず円山球場は超満員で チケットは入手困難です。ある年、馴染みのバーのマスターに何度も懇願された安藤さん、記者証を 貸してあげたことがありました(飲み代はキチンと払っています)。 翌日球場で“アロハ姿の記者”にびっくりしたことを覚えています。 大陸生まれらしく豪放磊落な半面、真面目で人情味のある人でした。

大連100年
写真集『大連百年』
安藤カメラマン
大連市内で撮影中の安藤さん

生まれ故郷の大連を忘れたことはないそうで、定年になってから何度も大連に通い、 2020年、街の変遷や庶民の暮らしを撮影した写真集『大連百年』を出版しました。 大連一中の先輩にあたる元参院議長、木村睦男さんが題字や序文を寄せています。

安藤さんは大連一中在学中に終戦を迎え昭和22年日本に引き揚げ、明大政経学部 卒業後フジテレビを経て産経新聞に入社したそうです。あらためてご冥福をお祈りします。







山口昌子さん「フランスと私」を語る YouTube

令和元年も終わろうという12月中旬、山口昌子さんか「一時帰国してます」と連絡がありました。

なんでも、本を書いているので、2月25日の「夕刊フジ創刊50周年記念の集い」に出席したあと フランスに戻ったそうです。日本の正月が好きなので毎年冬には帰国しているとのこと。日本定住はまだ少し先に なるようです。

その時の会話で、今年2月に「日本文化チャンネル桜」のテレビ番組に出演したそうです。それがYouTubeにアップされて入るというので探したところありました。

チャンネル桜の【夜桜亭日記】2月8日公開分の「元産経新聞パリ支局長の山口昌子さんをお招きしました」という番組です。 この番組はキャスターの浅野久美と歌手のsayaが、毎回、様々な分野で活躍する女性ゲストを招いて、その女性の魅力を引き出すトークや、sayaの歌などを披露する女子会風のおしゃべりバラエティ。

山口さんの子供時代の写真や夕刊フジでの仲間との写真を交えながら、彼女の人生やフランス人とフランス語の話を繰り広げています。あれこれ文字で紹介するよりYouTubeを見てもらったほうが早いので、以下に紹介します。

(この動画はサーバーから削除されました)




「夕刊フジ創刊50周年」の集い

夕刊フジが産声をあげた昭和44年2月25日からちょうど50年の平成31年2月25日、おれんじ会主催で「創刊50周年の集い」が内幸町のシーボニア メンズクラブで開かれ、OB、現在の 夕刊フジ幹部など48人が参集しました。

                     (当日の参加者 敬称略)
夕刊フジ創刊50周年参会者
(最後列左から)勅使川原豊、長堀敏夫、三橋邦夫、下條勝也、嵯峨厚生、北島俊一、町田達生、清水孝夫、野津修敏、
尼崎朋之、佐々木浩二、別府育郎、村井禮仁、加藤雅已、榎本正男
(後から2列目)大見信昭、森克蔵、綾部栄一、角山修司、中西幸一、山口尚毅、山口昌子、芝沼隆一、志波吉勝、平林靖敏、縣忠明、古閑正
(後から3列目)小林毅、菅野和明、佐藤将臣、佐藤実、大山宰治、萩原正人、宮崎健、千野境子、本光繁幸
(前から2列目)松村維予子、久保田るり子、鈴木隆敏、高山正之
(最前列左から)山路洋子、島谷泰彦、安藤徹、岡芳輝
このほか、三好英輔(写真撮影)太田英昭、村田雅裕、宮城晴昭の4人が出席。

最初に物故者に黙祷を捧げ、往時の写真のスライドが流れる中、創刊時を振り返りました。この日参加者で創刊前後にいたひとは10人を超えていました。WIDE面で陸海空の最新鋭兵器に当時 報道部にいた女性3人を乗せる企画があり、土井あや子のジェット戦闘機、千野境子の74式戦車、山口昌子の潜水艦と、岡芳輝”軍曹”指揮のもとつぎつぎ紙面化されたときの話では、 会場が沸きました。昌子さんの潜水艦以外は実現したのですが、千野さんはこの企画に乗り気でなく「戦車のことはなにも覚えていない」そうです。この件では久保田るり子さんから「わたし も4人目の女性で報道部にいました」と50年後のクレームが寄せられました。

この旗の下、奮闘しました おれんじ会初参加の方も

この日、参加者には志波吉勝さんの労作「きょう創刊50周年」が配られました。6ページ建てでトップは清水孝夫氏が山路昭平御大のゆかりの地を訪ね歩いて、曽祖父が函館 五稜郭に立てこもった1人だったなどルーツの旅です。終面ではあさま山荘事件で機動隊の突入が今か今かと見られたときに、山路さんが逮捕の瞬間を入れたくて、「待て、もう少し 待て」と言ってる間に午後6時が過ぎ、輪転機が回って売店に配置されたときには客足がなかった話です。、「俺の大失敗だった」(後年の述懐)という山路さんには珍しい失敗談です。 (記念特集版は別建て紹介)

このところ司会に一段と磨きがかかった芝沼隆一さんの仕切りでスムーズに進行、「1分スピーチ」では「これが最後だろうから」と九州・佐賀から駆け付けた村井禮仁さん、ウイーン大 学で博士号を取得して昨年帰国した、岡芳輝さん、安藤ウイリアムズこと安藤徹さん、営業畑一筋の山口尚毅さんがそれぞれ50年前夕刊フジを覆っていた熱気を語りました。

夕刊フジは創刊以来、この日で発行「15022号」になります。会場で配られましたが、永久保存版として6ページにわたり、話題になった紙面や特ダネが紹介されていましたが、 会場でも芝沼さん制作の「夕刊フジ50年の紙面から」のスライドショーが上映されました。創刊号から始まって日本中がテレビに釘付けになった「あさま山荘事件」など折々 の夕刊フジを切り取った35枚は懐かしく、当時を思い出してみなさん一段と話に身が入りました。そのスライドショーを以下で紹介します。

「夕刊フジ50年の紙面から」スライドショー

左右にある矢印(⇒)クリックで次の画面が表示されます(35枚)

萩原正人さんは今や写真を編集して音楽やコメントを入れた動画の制作を手掛けていて、この日、写真で振り返るあの頃「集まり散じて」という10分36秒の動画を作って会場で 披露しました。スキー旅行や、青梅へのピクニック、ちゃんこ屋など大手町を出てあちらこちらに活動を広げていた時代を切り取ってくれました。山口昌子さんのレジオン・ドヌール勲章 受章やボーン・上田賞などに活躍する女性陣はみな夕刊フジOGです。



(黒い画面左下の「右向き三角」クリックで「集まり散じて」動画がスタートします)

太田英昭さんが夕刊フジにいたことを知る人は少ないかもしれませんが、当時新聞とテレビの交流人事があり、フジテレビから5人が配属されてきました。4年半夕刊フジにい て今では「夕刊フジが私の原点だと思っています」と公言してくれています。産経の会長を務めた後、産経の英語情報発信媒体「ジャパンフォワード」の代表理事を務めていて、 下には昨年まで夕刊フジ代表だった勅使川原豊さんがいます。

ちょうどクラウドファンディングで資金を集めていて産経に広告を出すなどする準備をしているというので、おれんじ会からの総意として10口、3万円を出さしていただきました。 本人は中座されていたので勅使川原さんに寄託しましたがそのあと、SMSで以下のような文面が届きました。

「本日は素晴らしい会で何よりでした!所用で中座失礼致しました。おれんじ会のご芳志、感激、多謝です!再見!皆様によろしく!」太田

のちのちこの日の集いは思い出の折り返し点になるかと思い、みんなで集合写真を撮りました。撮影者の三好英輔さんら4人が写っていませんが、皆さんそれぞれ往時の面 影をとどめていていい表情です。来年また会いましょう。会の名称は「50+1」です。

以下は当日会場で配られた志波吉勝さん制作の創刊50周年記念「おれんじ会2019」の特別版6ページです
創刊50周年−1></a></td></tr>
<tr><td align=
  創刊50周年記念号の1面

創刊50周年−2></a></td></tr>
<tr><td align=
  創刊50周年記念号の2面

創刊50周年−3></a></td></tr>
<tr><td align=
   創刊50周年記念号の3面

創刊50周年−4

   創刊50周年記念号の4面

創刊50周年−5></a></td></tr>
<tr><td align=
  創刊50周年記念号の5面

創刊50周年ー6

   創刊50周年記念号の6面

◇ ◇ ◇

「夕刊フジ創刊50周年の集い」をおれんじ会主催で開くことになったいきさつを説明しておきます。夕刊フジは2018年9月の時点でOBの勅使川原豊氏が夕刊フジ代表で、創刊50 周年はささやかでも何か集まれる機会をつくりたいという意向でしたが代表が変わり、新聞界の業績も下降の一途で、創刊50年には何もできないという方針が伝えられました。

昨年亡くなった小笠原満氏は「集まりには這ってでも行く」と言っていたそうで、大手町主催ではできなくても何らかの形で開催しなければこれまで夕刊フジを支えてきたOBの皆さ んに申し訳ないということで、昨年11月12日おれんじ会幹事が集まり開催を決めました。

といっても予算があるわけでもなく人手があるわけでもないので、すべて手作りでやるほかありません。折から宮崎が入院・手術で戦列を離脱するアクシデントもありましたが、残 りの幹事諸兄の大奮闘があり開催にこぎつけることができました。

志波さんは案内状の名簿作りから、当日用の「おれんじ会新聞特別号」の編集をかって出てくれ、芝沼さんは司会と当日に上映する思い出アルバムづくり、萩原さんは昔のアルバム をあちこちから集め、また榎本さん、森さんが協力して各部局の人たちの顔がまんべんなく集まるように掛け合ってもらいました。こうして夕刊フジの歩みと懐かしい群像を組み合わせて 10分余りの「集まり散じて」の思い出アルバムが完成しました。

整理部、写真部それぞれの特技を生かしてのボランティアと、手弁当でこれに協力いただいた方々の協力があって初めて実現したものです。もし大手町主導で潤沢な資金が提供さ れたとしてもこの日のようなアイデアあふれ皆さんに「よかった」「素晴らしい会だった」と言っていただける創刊記念の集いはできなかっただろうと自負しています。

なにより夕刊フジに青春を捧げ、小さなタブロイド紙を愛し、製作に全力を挙げてこられたOBの皆さんの思い入れがあってはじめて実現した「手作り」の創刊50周年記念の集 いだったと思います。OLD BOY、OLD GIRLのみなさんありがとうございました。



千野さんの近著  「戦後国際秩序の終わり」

千野境子さんの新著を紹介します。2月25日のおれんじ会「夕刊フジ創刊50周年の集い」でお会いした後ご恵送いただきました。病院での待ち時間に目を通したのですが、引き込まれました。

ここで書評するより、同送されていた宮家邦彦氏の書評に言い尽くされているのでそちらを紹介します。なんでも、夕刊フジにいた三保谷浩輝氏が現在、産経文化部で書評デスクをしてい るそうで、彼の人選で宮家邦彦書評になったようです。国際政治評論を業とする人は数多いですが、外務省キャリア時代から世界を駆け回っての的確な国際政治論は傾聴に値します。

【書評】
立命館大学客員教授・宮家邦彦が読む『戦後国際秩序の終わり 世界の中の日本』千野境子著 湾岸戦争、9・11…取材現場からの生の視点

千野近著
千野さんの近著「戦後国際秩序の終わり」
著者は産経新聞外信部長や論説委員長を務め、ボーン・上田賞も受賞した気鋭のジャーナリスト。何かと「女性として初めて…」などという陳腐な能書きが付くが、国際情勢の評論に は女性も男性もない。評者より先輩で、政治家や官僚でも学者でもない、取材現場からの生の視点は大いに参考になる。

 その彼女が最近書いたのが本書、表題は「戦後国際秩序の終わり」だ。湾岸戦争、米中枢同時テロ、PKO派遣、ポル・ポト派から、北朝鮮、日韓関係、沖縄本土復帰、原  発問題まで、第二次大戦後のわが国に関連する大事件を取り上げ、それぞれを「一体何だったのか」と冷徹に検証している。ジャーナリストしか書けない戦後史の総決算だ

 著者はトランプ氏の勝利に「驚きよりもリベラルな戦後国際秩序が遂に終わろうとしている」「来るものが来た」と書いた。誠に同感だが、それだけではない。本書では随所に研ぎ澄ま  された歴史感覚が鏤(ちりば)められている。

 例えば、湾岸危機については「全ての局面で日本人には当事者意識が希薄」であり、9・11では「復元力こそアメリカの最大の財産」であり、「健全で強靱(きょうじん)  な楽観主義と表裏一体」と説く。PKO問題では「日報問題は国内でのみ通用する内向きで表面的な議論」と喝破し、朝鮮半島問題では慰安婦問題に果敢に切り込み、沖縄問題で  は2000年の「沖縄イニシアティブ」を振り返るといった具合。読み応えがある。

 本書の読み方は十人十色だろう。国際情勢に興味を持つシニア読者なら、同時代を生きたジャーナリストの当時の皮膚感覚を感じてほしい。学生や若いビジネスパーソンの読者なら、  戦後、特に平成の30年間に日本を取り巻く国際環境がどう変化したか、また、日本はそれに如何(いか)に対応してきたかを考えながら、じっくり読んでほしい。

 世界が左右両極端の極論に流されつつある今日、著者のようなセンターライトの不動の座標軸は貴重だ。左の人々は勿論(もちろん)、右の人、また左から右に転向した人にも、等し  く一読に値する良書である。(連合出版・1600円+税)



アドストーリーの名整理マン、小笠原満さん逝く

整理部・企画部で紙面レイアウトに手腕を発揮した小笠原満さんが8月10日午前1時11分、すい臓がんで亡くなりました。87歳。

葬儀
小笠原さんの故郷、北九州市門司区での葬儀。「母に、この写真にして欲しいと
言っていたそうです。ずいぶん若い時の、夕刊フジで 一番楽しかった頃
ではないでしょうか」(里加さん)
7月初め、小泉良夫さんの訃報を伝えた際、「オレもすい臓がんだといわれた。肝臓やらあちこちに転移していて、手術はできないんだって。あとどのくらい? って訊 いたら『年内いっぱい』といわれたよ。だけど女房は、信じてくれないんだ」。笑いを含んだ電話口の声から、こうも早く急変するとは思いもしませんでした。

10日朝、一人娘の里加さんから「実は、2週間程前から入院しております。先週見舞ったときも日に日に悪くなっており、あと2、3日というところです。私も明日の飛行機で実家に参 ります。先月は、一緒に小倉競馬に行き楽しんだのに、残念でなりません」とメールが届きました。 その数時間後に、「残念ながら夜中の1時11分に旅立ちました。私も先程こちらに到着しましたが寝ているようです」の悲報。

                

昭和43年秋、夕刊フジ発刊プロジェクトに抜擢された『創刊に挑んだ四十七士』(馬見塚達夫著・夕刊フジの挑戦)のひとりで、タブロイド版の小さな紙面を生き生きと見せるレイアウトは 、同僚整理記者が一目置くものだった。

「読ませる」「見せる」夕刊フジの特色を、編集面だけでなく広告紙面にも広げたのが"レイアウトの魔術師"といわれた松村幸夫さん。小笠原さんの手腕を見逃すハズもなく、昭和52年に 新設された編集企画部に整理部と兼任の形で引っ張り込んだ。

企画部の狙いは「読ませる広告」。一見、編集面のように見せるもので、アドストーリーという造語が誕生、営業面での売り物になった。代表的な『ぴいぷる・いん・ぐらす』は19年間延 べ255人の知名人が登場したロングセラーだった。記事の書き手は雪山隆弘さん、小泉良夫さん、小田孝治さん、整理を兼ねて芝沼隆一さん。「兼任」だった小笠原さんはいつしか「企画部専 任」となり、営業紙面づくりに没頭した。

「スポンサーにプレゼンする際の絵コンテもオレが描いているんだよ」という小笠原さんを営業部隊の人たちが手放すはずはなく、定年後も約20年間、2000ページ近い紙面づくりを手伝った。 「月に10数ページの《視覚訴求効果を問われる》営業紙面創り、結構楽しさを味わい生き甲斐を感じております。なお生涯ページに挑戦中!!」と旧友会報の近況欄に書いている(H19年元旦号)。

愛称はサンチャン。太平洋戦争終戦直後の幣原喜重郎内閣や吉田茂内閣で経済閣僚を務めた小笠原三九郎氏の三九郎にちなんだと聞いたが、本人と三九郎氏に接点はまったくない。そ れでも本人はひょうひょうと受け入れていた。仕事中、ハラが立つことはあったはずだが、怒っている気配をみせたことのないおおらかな人だった。営業局ひとすじだった森克蔵さんは 「広告主からのレイアウト変更、見出しの直しをはじめ、『てにをは』まで嫌な顔一つせず直しをしてくださいました」と振り返っている。

たまったストレスを発散させるためか、競馬(府中)やボートレース(多摩川)によく通っていた。競馬は午前中のレースが好きで、聞かされる戦果は"ほとんど負けたことがない"ものだった 。10年ぐらい前、配当約26万円の大穴を的中、その全額をはたいてニコンデジタル一眼レフの高級カメラを購入した。
このカメラで「桜咲く春が待ち遠しい」日々になった。小金井市に住んでいた時は5年連続で市の「桜写真展」に入賞。故郷の北九州市・門司に帰ってからはウオーキングを楽しむサークル や太極拳で地域デビューし、みんなの様子を撮り・書き・レイアウトして市民センターの掲示板を飾った。「結構喜ばれているんだよ」と満足そうな口調で何度も聞かされた。 小学校の同窓会では同様に会報『喜寿感動』を編集、恩師・級友から喜ばれただけでなく、母校の創立百周年記念資料室に展示。終戦前(昭和19年3月卒)のどさくさで卒業アルバムがな かった空白部分を埋めることにもなった。

市民センターで男性限定講座の『手打ちうどん・ぶっかけ風』に挑戦! 「自分で作って自分で食べる醍醐味を味わいました。妻のありがたさがしみじみと"身に染みる味"でした」 (旧友会報H30年元旦号)と妻・葉子さんへの感謝も記していた。

葬儀
おれんじ会、整理部OBから供花をおくりました
大手町を完全に"卒業"する際、営業局の有志にREMBRANDTの水彩セットを贈られ、「絵を楽しんでいる」と語っていたサンチャン。訃報を聞いた森さんは「営業の者は『感謝』の 一言です」と悼んでいる。

                

◆ ◆ ◆

「来年はオレも米寿。創刊50周年式があるのなら、這ってでもみんなに会いに行くよ」といっていたのに、残念です。           

(文責 志波吉勝)



夕刊フジのサッチモ、小泉良夫さん逝く

小泉良夫さんが7月2日午後6時45分、直腸がん、肺がんなどのため亡くなりました。77歳。

「通夜は行わず葬儀・告別式は7月10日(火曜日)午後1時〜2時、文京区千駄木3−52−1の道灌山会館第1式場。家族葬ですが、奥様は「夕刊フジの方々はどうぞいらしてください 」と言われています。」

志波吉勝さんからこのような訃報メールを受け、富子夫人と長男のあつしさんと電話で話した。日吉の社宅で我々夫婦と一緒だったことがあり、居合わせた家内も昔話に加わった。 長男氏はうちの長女と同じくらいだったから40代後半くらいか。「7月26日が誕生日なので、もう少しで78でしたががんが直腸や肺に転移していてダメでした」としっかりした応答だった。

富子夫人は日吉で一緒だったし、ご実家が神田駅前商店街にたばこ屋さんで会社から昼飯でこのあたりによく立ち寄ったこともある。ロクさんが定年の時、家内に、「あまり(退職金が) 安いので笑っちゃいました」、といったとかで昔話になった。

ロクさんからは昨年11月「終活宣言」をもらっていた。

平成29年も押し迫ってきて慌ただしい中、突然のお便り、失礼いたします。
 昨年は義母が99歳の天寿を全うし逝去いたしましたため、今年の年賀状は欠礼させていただきました。私こと良夫は今年、喜寿を迎えましたが、まあ、“めでたさも中ぐらい”と いったところ。そんなこともあって、何とか元気なうちにと、今はせっせど終活”(ソナエ)を進めており、身辺整理に余念がありません。 そんなわけで来年以降の賀状も欠礼 させていただきたく、ご挨拶する次第です。
 それでもまあジャズの名曲ではありませんが、「Just a Little While to Stay Here」‥・もうしばらくこの世に置かせていただきますので、相変わらずのご厚情をお願いいたします。
皆様には本当に長い間、お付き合いいただいたこと、心から御礼申しあげます。
末筆ながら皆様のご健康とご活躍をお祈りいたします。             敬具
             平成29年11月吉日

富子夫人によるとそのころ東大病院であちこちに転移したがんを切除、また切除して今年になって墨田区の山田記念病院に転院したものの、抗がん剤3種類も投与されていて、食事 はのどを通るものの味もしないしただ苦しいばかりとこぼしていたとのこと。今、高齢者への抗がん剤投与の良しあしが問題になっているが、ロクさんはその典型だったようだ。

夫人によると終活宣言のころから死を覚悟して、家族葬でやれ、と言い残していたものの、仲人した縁もあり夕刊フジの佐々木浩二編集局長に連絡したところあちこちからお悔やみをいた だき、家族葬なのにいろんな方がお見えになるような按配で本人の遺志とは違ったものになりつつあります、と笑われていた。

訃報をみた整理部の下條勝也さんがこんなメールをよこした。
ロクさんにお会いして積もる話をしたかった下條です。「小泉良夫」こと「永六輔ソックリ」人間との素敵な時間を思い出しています。享年77歳ですか?それがし73歳、近々お会いできそう。 楽しいお話ができそうです、お待ちください。

社内ではロクさんで通っていたが、下條メールでその謂われはお分かりだろう。筆者(宮崎)の1年後輩で、初めて会ったのは飛騨川バス転落事故(昭和43年8月18日午前2時11分、 岐阜県加茂郡白川町地内の飛騨川沿いの国道41号で、豪雨のため立ち往生していたクルマの列に向け土砂崩れが起こりバス2台が転落、死者104人を出したわが国最大のバス事故)だった。

この日の社会部の当直は中川朗デスク、原口順安、一番下っ端が宮崎健。午前4時ごろ名古屋総局から一報がもたらされた。「川にバスが落ちて100人以上行方不明」だという。宿直室 の電話は一番下っ端が取る。そのときの私の応対はこうだ。「アホな、バスにそんなようけ(大勢)乗れるか。なんかの間違いとちゃうか」。名古屋も、もっともなことと考えたよう で「もう一度聞きますわ」と電話を切った。20分ほどしてまた電話。「2台ですわ。観光バス2台、崖から川に落ちたんです」。真っ青になった。あわててデスクと先輩記者をたた き起こしにかかった。

20分の遅れは致命的だった。社のクルマは4時で運転手は帰していた。タクシーに当直の3人が乗り岐阜まで駆け付けた。名古屋からやって来たのがロクさんで県警詰めには岡芳輝がいた。 夕刊フジ創刊時この飛騨川事故に集まった時のメンバーが全員、東京に出された不思議な縁がある。

夕刊フジではロクさんの出番は多かった。雪山の下で「ぴいぷるinグラス」など記事広告で活躍する一方、忘年会など宴会では司会を買って出て流れるようにさばいていた姿をご記憶の方 も多いはずである。

ロク賀状
ルイ・アームストロング宅を10数回訪問とある平成27年の賀状
ジャズが好きで毎年のようにテネシー 州のニューオーリンズを夫婦で訪れていて、昭和27年の年賀状には心酔するサッチモことルイ・アームストロングの実家を何十回と訪問している様子 がつづられていた。トランペット奏者であり「外山喜雄とデキシー・セインツ」を率いかつ日本ルイ・アームストロング協会会長の外山喜雄夫妻と親交を結び、氏が主催する毎年のジャズの聖地巡りの旅に 10数回参加していた。

テネシー州の州都はナッシュビルだが、私たち夫婦もこの街をよく訪れた。義兄がここのタイヤメーカーの社長をしていたので訪問していたのだが、こちらはケンタッキーの馬術施設を もっぱら訪れていて、ロクさんとはほんの近くで別々の趣味の生活を、同じころ同じような場所で送っていたことになり、今度はニューオーリンズでロクさんの解説でジャズやカントリー ミュージックを聞きに行こうかと言っていたのだが、かなわぬ間に幽明境を異にした。

◆ ◆ ◆

今年3月6日には文化部の黒田基男さんが80歳で亡くなった。無口な人という印象を持たれる人が多いと思うがどうしてどうして。日本映画、特に黒澤明を語りだしたら止まらない人だった。

大阪社会部時代、クロさんは雪山(当時は利井)隆弘、と宮崎健の「教育係」だった。山路社会部長の命令で、互いに望んだわけではないが、さっぱり言うことをきかない2人を四ツ橋 のプラネタリュームのそばの行きつけのバーによく誘ってくれた。

故人であることにおっかぶせて同僚のせいにするのだが、教育係を友達扱いする雪山が雨あられと取材して、その女将と結婚する予定だということを聞き出した。だからクロさん が東京に出て来てからも、そのうち一緒になるのだろうと思っているうちに何十年かたった。雪山がいれば根掘り葉掘り取材したのだろうが、取材力のない小生は聞きそびれた。

回文ではないがクロさんに次いでロクさんも逝った。それにしても昭和43年12月から翌年にかけて、大阪から「特別取材本部」(夕刊フジの名前もなく創刊準備本部)に発令され た幹部、記者のうち残っているのは2人だけ(岡芳輝、宮崎健)となった。

「おれんじ会2018」にOB、現役31人出席

2018年のおれんじ会は3月10日正午からプレスセンターからビル3つほど北寄りの「シーボニア メンズクラブ」中日ビル店で開かれました。

昨年は遠く箱根に集まったのでひとケタの参加でしたが、今回は現役諸氏が多数顔をみせてくれて31人、数年ぶりの参加というOBの笑顔も見えての盛会ぶりでした。

                     (当日の参加者
おれんじ会2018
(最前列左から)佐藤 将臣、大山 宰治、佐藤 実、古閑 正
(中列左から)三好 英輔、佐々木 浩二、勅使川原 豊、下條 勝也、林 榮三、森 克蔵、久保田 るり子
(後列左から)宮崎 健、阿部耕三、本光 繁幸、榎本正男、大森 浩、清水 孝夫、山路 洋子、野津 修敏
        島谷 泰彦、田中 規雄、高山 正之、嵯峨 厚生、小森 照生、中西 幸一、田中 健雄
、         志波 吉勝、安部 正、鳥居 洋介 (ほかに)菊地 克之、萩原 正人(写真撮影)

会場では整理部OBの志波吉勝さんが腕を振るった「夕刊フジ創刊プレ50周年」の特別版が配られました(文末に全ページ紹介)。A4版4ページでトップは、13年間のウイーン留 学を終えて、83歳で博士号を取得してこの1月に帰国した、岡芳輝さんの驚異の留学生活ぶりの紹介です。

厳寒のオーストリアで靴下3枚、タイツ2枚はいて暖房なしの赤貧生活だったそうですが、それにしても大した勉学ぶりです。その卒論が「自衛隊の組織論的研究」だそうで、報道部 の時から「軍事オタク」で鳴らした岡チンらしいテーマです。

現役からは数人が参加していただき、現在の夕刊フジを支える勅使川原豊夕刊フジ代表、佐々木浩二編集局長が「OBの皆さんの伝統を守って紙面づくりをしています」。昨今の厳 しい即売状況を踏まえ、月額1000円の電子版普及に力を入れていることなどを紹介しました。また、この日の夕刊フジと、先ごろ発行した「がんの先端病院全国434」の健康特集版 (300円)が配布され、厳しい中で”売れる夕刊紙づくり”に奮闘している様子が垣間見えました。

島谷泰彦 林 榮三 森 克蔵
島谷泰彦さん 林 榮三さん 森 克蔵さん

長老組では、ともに80歳代半ばながら元気な島谷泰彦さん、本光 繁幸さんが往時の活気あふれる編集局の様子を思い出話を混ぜながら振り返ってくれました。いったん話を終えてからも 2度3度とスピーチに立つほどで、大手町の日々が今なおあふれるように出てくる様子でした。

毎週木曜日発売の週刊新潮「変見自在」で変見あふれる独自の歴史観で毒舌、特に朝日新聞叩きに情熱を燃やしてくれている高山正之さんも顔を見せてくれました。「夕刊フジでも本紙 でもボクちゃん(昔から彼の口癖)への評価は最低だった」とぼやいて見せていました。「2月に3回目の心臓カテーテルをやり生還した」そうですが、心臓に毛が生えている彼のこ とですから、今後も活躍してくれるでしょう。

会場風景
現役、昔若手、まもなく定年‥懐かしい顔ぶれが集った
驚かされたのは編集局のマドンナだった久保田るり子さんが定年で再雇用生活に入ったと近況を語ったことです。そればかりではなく、夕刊フジ定期採用組の一期生で現在、産経抄に健筆 をふるっている田中規雄さんも、さらにはこの日欠席ながらOBとよく交流してくれている別府育郎論説副委員長も「まもなく定年」というのです。

来年、夕刊フジは50周年です。半世紀という年輪を考えると当時の「若手」も還暦を迎えるのもむべなるかな。できれば来年の「創刊50周年」には老いも若きも「オレンジ色の憎い奴」 に青春を捧げた者同士集まりたいものです。


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「さくら色のおれんじ会2017 in箱根」

東京に日本で一番早く開花宣言が出された2017年のおれんじ会は表題のように、2017年4月8、9の両日、箱根強羅の産経保養所 「ゆのん(湯音) 」での開催となりました。現役も参加しやすいようにと土日開催を心がけましたが、ふたをあければ、OBばかり9人。

(当日の参加者
おれんじ会箱根
(左から)佐藤実、志波吉勝、島谷泰彦、芝沼隆一、下條勝也、加藤雅己、萩原正人、宮崎健、榎本正男の各氏

返信はがきを見ても「大腸がんと肺がんの手術で」「腰を痛めて」「足が思うように」などとあって、高齢化の波は迫っています。今年も1月に原口順安氏が鬼籍に入りました。会の冒頭、原口さん、金子東平さん、宝田耕介さんらに黙祷をささげました。

男だけだったので、これを幸いに順安の「女性問題研究会」のようなところもありましたが、「リビングに出されたとき、順安さんがいろいろ配慮してくれたのが忘れられない」(下條勝也氏)とか、夕刊フジが創刊されて間もなく和歌山で大火があったとき、大酒のみのM支局長が行方不明。山路御大から「大恩あるお前が本記を書け」と命じられた順安以下、岡芳輝、雪山隆弘、小泉良夫、宮崎健が電話帳から近所の住所に電話をかけまくり「真に迫った雑感記事」を書き、写真も地元紙から手に入れて、すべて和歌山支局からの電話送稿として大阪社会部に送ったものです。情に厚くなにか家族的な夕刊フジでした。

中でも整理部は今もよく集まるそうで、沖縄に帰った當山久雄さんのところまで有志が出かけて一献傾けたとか、フジテレビから夕刊フジに来ていた5人の消息や訃報、老人ホームにいる誰それ氏の近況、亡くなったOBの家族のその後など、ビール、日本酒、焼酎と飲み継ぎながら夜遅くまで「談論風発」した(こういうのまでそういうのかどうか知りませんが)箱根の夜でした。

翌日、朝食後は現地解散それぞれ予定がある方は下山、島谷、志波、佐藤実、宮崎の4人は保養所がある上強羅からケーブルカーで早雲山へ。あたりは真っ白な霧の中。あと10日ほどで再開するようですがロープウェイが運休中で代行バスでガスの中大涌谷へ。ロープウェイで桃源台へ。この間真っ白なガスで一寸先も見えず。芦ノ湖で海賊船で元箱根に行く予定でしたが、これまた濃霧で3日間運休です。結局バスで小田原まで2時間のバス旅行しました。まったくわれわれの前途を象徴しているような行先見えずでした。

夕刊フジは再来年「創刊50周年」を迎えます。幸いにも現代表は夕刊フジプロパーの勅使川原豊氏。尼崎朋之(営業局長)、佐々木浩二(夕刊フジ編集局長)、清野邦彦(サンケイスポーツ編集委員)、本紙に移っても三保谷浩輝(産経地方部長)、別府育郎(論説副委員長)、田中規雄(論説委員、「産経抄」筆者)などの夕刊フジ人材が活躍中で、節目の「50周年」をきちんとやる意気込みです。そのときは「おれんじ会」も合流して開催したいと思います。それまで、来年あたりまではOBの足のことなど考えて、大手町など足場のよいところで呑み会形式でと思っています。

芝沼、萩原、佐藤実の3氏 志波、島谷、加藤の3氏
以前の産経保養所はリニューアルして「ゆのん(湯音) 」。
目玉マークの前で島谷、志波、宮崎、佐藤実の4氏。

このあと「濃霧の中の旅行」となるも知らずにケーブルを
待つ佐藤実、島谷、宮崎(カメラ志波)の4人


千野境子さんのコラムを紹介

2017年3月11日で東日本大震災から6年。千野境子さんが被災地をルポした記事が日本原子力産業協会(JAIF)のホームぺージ に掲載されていますので紹介します。 JAIFは日本の原子力産業の企業で構成する業界団体で原子力の平和利用の促進を進める活動をしているところです。

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 ルポ・大熊町を訪ねて

 −玄関に掛かる「必づ帰る」に込めた思い−

       2017年3月14日
「必づ帰る」

玄関を入ると真っ先に目に飛び込んで来た、半紙に黒々と書かれた四文字。「必ず」ではなく「必づ」に、Sさん(92歳)の帰還にかける思いの強さがより一層感じられた。

千野境子
産経新聞客員論説委員
千野 境子 氏
青空の下、福島県双葉郡大熊町のSさん宅の周辺では、芽吹き始めた木々をはじめ春近しを思わせる光景が静かに広がっていた。けれど一歩屋内に入ると、地震で壊された上にイノシシに荒らされた台所や茶の間は家財道具が散乱し、足の踏み場もないほど、その惨状は想定を超えていた。

「都会の人に大熊町の現状をもっと知って貰いたい。そのためには町もおらの家も見てほしい」そう語るSさんを案内役に、大熊町を訪れたのは3月初めだった。あれから6年、隣接する浪江町や富岡町などが4月には避難指示が解除される予定であるのに対して、大熊町はまだ全町民の約96%が居住していた地域が帰還困難区域に指定されている。それでも、年間最大30回(1世帯あたり)という制限の下で自宅への一時立ち入りが出来るようになった。ただし自宅へは上限2時間、1世帯あたり3人までなどの条件がある。 「必づ帰る」(筆者撮影)

「必づ帰る」
「必づ帰る」(筆者撮影)
私がSさんに初めて会ったのは2011年11月、場所は避難先の会津若松市にある仮設住宅だった。地震と原子力発電所事故から8か月、世の中がまだ沈んだ空気に覆われていた当時、年齢を感じさせない若さと「故郷は根っこ。厳しくても現実と向き合わねばダメだ。除染して戻りたい。送電線は無事だから今度は再生エネルギーで(社会に)もう一度貢献するのがいいと思う」と語る前向きな生き方にかえって勇気づけられ、将来必ずSさんと大熊町を訪れようと私は密かに誓った。5年4か月後の今回、それが実現したのである。

雪の多い会津若松を去り、現在はいわき市の仮設住宅に暮らすSさんと落ち合い、会津若松の知人Oさんが運転する車で一路、大熊町に向かった。広野町〜楢葉町〜富岡町…と車窓から町々を眺め、あらためて感じたのは、会津若松や郡山などと比べて車の往来の頻繁なことだった。しかもそのほとんどは作業車、見かける人も作業服姿の男性ばかり。復興が進む証ゆえで、それは嬉しいのだが、普通の町にはやはりまだほど遠いということだろう。沿道の黒いビニール袋の山も目的地に近づくにつれどんどん増えた。 老若男女が当たり前に行き交う町に早くなってほしい、いつしかそう願っている自分に気がついた。

しかし大熊町には新しい変化が生まれていた。空間線量の低い大川原地区に町役場の連絡事務所が出来たのもその一つ。町の復興の新たな拠点であり、一時立ち入りで戻る町民たちの情報交換の場にもなっている。派遣職員は4人。私たちも立ち入りの挨拶に訪れ、Sさんはしばし職員と楽しそうに世間話に興じた。皆、顔なじみ。動静も分かる。コミュニティが成立するには、何よりもこうした場が不可欠なのだと痛感した。

無人の大野駅-
無人の大野駅(筆者撮影)
Sさんは限られた時間に出来るだけ多くの場所を案内したいと考え、一所懸命プランを練ってくれていた。新設された中高一貫教育のふたば未来学園、6,000人からの作業員に温かい食事を提供する給食センター、作業員宿舎、除染作業を進める常磐線の線路、今は廃駅の大野駅等々。除染されていない土地で試験的に米作の行われている場所にも足を運んだ。そこはSさんの土地や林が広がる場所でもあるからだ。収穫された米は放射能の基準値をこれまで一度も超えていないという。

「ここへ来ると小さい頃に川で遊んだことや楽しかったことがいろいろ思い出されますよ」と表情を和ませるSさん。92歳とは思えないSさんの健脚は、生まれ育った大熊町では一段と自信に満ちてしっかりしている。故郷とは何と不思議で力強いものなのだろうと、私はSさんの背中を見ながら思った。

Jヴィレッジやオフサイトセンターなどを見た時、私の気持ちはいささか複雑だった。それらは15年以上前に取材で訪れた場所でもあったからだ。福島第一原子力発電所にも入り、当時に聞いた「地震の際には原子力発電所に避難せよ」と言われるほど安全重視の場であること、地元民との共生を目指していること等の話は新鮮だった。

しかしその安全なはずの原子力発電所が、東日本大震災ではまさに地震を引き金に筆舌に尽くし難いほどの重大な帰結をもたらした。事故は不可避だったのか、安全神話が崩れた真の原因はどこにあるのか、問いへの答え、つまり宿題はまだ終わっていない。そのことも私が大熊町を再訪したかった理由だ。この宿題は関係者すべてがそれぞれの立場で取り組み、答えていかなければならないのだと思う。

再びSさん宅。奥の部屋の背丈ほどの大きな仏壇の近くに、もう一枚「必づ帰る」が貼られていた。「イノシシもこの部屋までは入って来ない。無事だ。必ず復興して見せます。そう先祖様に誓ったから」

戻る時間が迫り、後ろ髪を引かれる思いで大熊町を後にした。今、Sさんは自宅が除染される日を心待ちしている。「その暁には、Sさん、もう一度一緒に来ましょう」。私はそう声を掛けた。



原口順安氏を偲ぶ

原口順安
原口順安さん
夕刊フジ随一のモテ男、原口順安氏が2017年1月30日、肺炎のため亡くなりました。箱根でのおれんじ会の案内の返信はがきに、甥にあたる方から「昨年7月から脳梗塞で入院中でした。 本人の遺志で女子医大に献体され、遺骨が戻るのは1年か2年先のため、葬儀など一切行っていません。そうした事情なので、ご理解ください」と書かれていました。78歳(たぶん)でした。

◇ ◇ ◇

大阪社会部から夕刊フジ報道部と長い付き合いでした。琵琶湖そばにグループが大開発したレジャー施設、サンケイバレイの初代取材担当記者でオープンの日にさっそうと山頂にいったものの 滑り出したとたんに転倒、大腿部の動脈が切れて病院に搬送され、名物のカーレーターの下山乗客1号でした。のち、飛騨川バス転落事故では社会部取材班からは中川朗、原口順安、宮崎健、 名古屋総局から岡芳輝、小泉良夫、この時現場にいたほぼ全員が3か月後の発令で夕刊フジ要員になりました。

「軟」の方は数えきれない逸話を残しましたがここでは書きません。猫好きで飼うために日吉の寮から仙川への引っ越しを私のクルマで手伝いました。練馬大根の畑のまっただ中のアパートで、 越中ふんどし(一生これで通した)姿で一升瓶を枕に寝ていて、20センチほど開けたガラス戸から猫が泥をつけた足で出入りしていました。

10年前、世田谷玉川にいたとき電話したら同居しているという民放ラジオ局の女性から「この番号にいるはずです」と電話番号を告げられ不思議な思いにかられました。その後千葉県勝浦市 川津の海際の一軒家に一人で引っ越しました。

房総半島の先までわざわざ訪ねて行った馬見塚達夫氏いわく「けっこうなスポンサーがついていて、立派な家一軒まるごと、無料で好きなだけ使っていいといわれているそうだ」と感心して いました。

ただ大腸カタルのような症状があって、電車に乗っても駅3つか4つほどしか持たないので、ほとんど外出しなかったようです。勝浦からすぐ近くの旭市での細野憲昭氏の葬儀にも姿を見せ ませんでした。ただ山路昭平氏の葬儀の1年くらいのち、千葉、東京、神奈川と関東平野を横断してお参りに出かけています。あの体調でどうして行けたのか不思議な「旅」でした。

義兄は高島屋の幹部で夕刊フジの営業に協力いただきました。姉上が文京区動坂下にいて、近くのすし屋に夕刊フジがよく出入りした縁で麻雀にお邪魔したこともありました。

真冬でもせいぜい合いの背広に薄いマフラーを第一ボタンの下まで掛ける程度。食事は主に「コメの汁」(酒)。ユニークな生活スタイルを貫き通した伊達男の人生です。    

 (1,2年後輩の宮崎健)


かつて夕刊フジから突然「リビング」に移籍させられた私にとっては、順安局長は「地獄に仏」でした。思いもかけないリビング生活、飄々としていながら、女性軍団をしっかり、かっ こよく仕切っており、諸々お勉強させていただきました。もうお話できないことにビックリせつなく思っております。「順安さんに逢いたいナァ」

(元整理部、下條勝也)

原口順安さんの甥御さん(江見健二朗さん)から、お亡くなりになった」との電話がありました。あわてて夕刊フジのOBのホームページを見ました。

毎年、年賀状のやり取りをしていたのですが、いつもは「年が明けたからって、何ぁーんも目出度くない」と言いつつもT月末までには必ず賀状を頂いていたのですが、2月に入っても音 沙汰が無かったものですので、心配になり、電話をしてみましたら「ただいま、トンビと遊んでいます」のメッセージが流れるだけでしたので、入院していらっしゃるのかしらと心配してい た矢先でした。まさか、まさかでございます。

以前リビングにいて、ご近所に住む北川さんという方が、毎朝猫のお世話に行っていて、昨年夏、倒れていた原口さんを見つけて救急搬送したと、甥御さんから聞きました。リハビリに励 んでいたそうですので、ほんとうに残念でした。寂しくなりましたが、当人はもう【天上の夕刊フジOB会】で、賑やかに毎日酒盛りをしていることでしょう。

宮崎さんもおっしゃるように、着流しの似合いそうな伊達男でしたね。最後のヤサは海辺でと決めて、猫と二人?で暮らしたユニークな方でした。

(山路昭平夫人、山路洋子さん)

◇ ◇ ◇

本人の遺志(たぶん)で、改めての偲ぶ会などは予定していませんが、4月8日の箱根での「さくら色のおれんじ会2017」で少し思い出話を語り合いたいと思います。



山口昌子さんの新著『パリの福澤諭吉』が大好評

「パリの福澤諭吉」
「パリの福澤諭吉」(中央公論新社。1600円)
山口昌子さんは年末年始に帰国していました。いつもなら馬見塚さんたちと会うのですが、今回は滞在が短かったので、宮崎健、萩原正人の両名が暮れにプレスセンターで会いました。 そのとき新著『パリの福澤諭吉』(中央公論新社・1600円+税)を出したことを話していました。そこで、買い求めて読みはじめたのですが、すぐに「これはまさしく夕刊フジ的手法そのも のだ」と思い ました。本人も常々「わたしが今あるのは夕刊フジのおかげ」と言ってます。早速このOBの欄で紹介しようとした矢先、2017年1月14日の産経書評はじめあちこちで取り上げられて、いずれも大絶賛 でした。拙文などよりこちらの熱意あふれる文章のほうがよかろうと、2氏の書評をそのまま掲載します。

おれんじ会は4月上旬箱根で開催しますが、山口さんは1月2日にパリに戻りました。20余年のパリ暮らしなのでその大決算として5月の大統領選(かなりの波乱が予想されます)の結果を 見てから帰国したい、ということでした。恵比寿にマンションを買い、パリは完全に引き払い日本で暮らすそうです。おれんじ会には出られないが皆さんによろしくとのことです。

◇ ◇ ◇

 □『パリの福澤諭吉 謎の肖像写真をたずねて』 (2017年産経新聞掲載の福原義春・資生堂名誉会長による書評)

 ■人物や事象の輪郭はっきりと

福原義春
福原義春・資生堂名誉会長
 一万円札の肖像は、1984年に福澤諭吉になり、2004年には現在のデザインに変わった。その際、他の紙幣は人物が変更されたが、一万円の福澤の肖像だけは継続した。つまり3  0年以上も日本の最高額紙幣の顔として存在していることになる。

 著者は、新聞社のパリ支局勤務時代の2009年、東京で開催された福澤諭吉展で、一枚の肖像写真に出合う。それは紙幣で馴染(なじ)み深い大成した姿ではなく、精悍(せいかん)な  青年武士の諭吉の肖像で、添えられた説明によればパリで撮影されたものだった。

 諭吉は、1860(万延元)年の遣米使節団の一員として咸臨丸で渡米し、2年後の1862年には文久遣欧使節団の一員として欧州諸国を訪問している。前者が軍艦奉行の従者とい  う最下級身分を頼み込んで参加したのに対し、後者は幕府の海外奉行傘下の翻訳担当として支度金を受けた海外出張だった。語学力に長(た)け、著者が“特ダネ記者”と評するほど好奇心に  満ちた若者の活力が、パリで写された写真から感じ取れる。

 この一枚を発端に、若き諭吉がパリに行って何に興味を示し、どういう行動をしたのか、単なる人物評伝の域を超えて、竹内下野守率いる文久遣欧使節団のミッションと、世界の寄港地での足跡も丹念に取材されている。使節団の写真のひと束をケ・ブランリ美術館で発見し、写真家としては無名の人物ポトーに辿(たど)り着きその生涯を探るという主題だけでも面白いのだが、その背景にある150年前の日仏関係、日英関係なども交えた当時の世界情勢も織り込まれている。「古文書類を大事に保管するのが国家の存在意義(レゾン・デートル)」と著者が記すようなフランスの特性はあるにしても、それらを粘り強く発掘して人物や事象の輪郭をはっきりと浮かびあがらせた著者の手腕と筆力は、並大抵のものではない。 (2017年1月14日産経新聞「書評倶楽部」から)

                   

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宮崎正弘
宮崎正弘氏
もう一人は保守派では名だたる評論家、宮崎正弘氏のもので2016年暮れに配信されたメールマガジンからの抜粋。

パリで発見された福澤諭吉の写真から、インスピレーションが湧いた。新しい角度から福澤諭吉が蘇った。 近代と現代をタイムカプセルのようにワープした傑作である。福澤の知られざるパリでの滞在記、そしてパリで撮影した写真が、最近になって発見された。パリ滞在二十一年という産経元パ リ支局長が、このミステリーに挑んだ。

 大分県中津市に福澤諭吉記念館がある。
評者(宮崎)も二回見学したことがあるが、『一万円札』の一番札と二番札が大きく飾られている。 福澤諭吉が果たした偉業はいまさら紹介するまでもないが、当時、ジャーナリスト、そして教育者として明治近代化の寵児となった福澤諭吉は、江戸幕府の派遣で米国と欧州を遣欧使節団の一員として使節随員に通訳官として加わっている。 幕末の彼は下級武士、緒方洪庵の適塾(てきじゅく)にあって頭角を現し、オランド語を学んでいたが、途中から独学で英語を身につけていた。

帰国後、かれの書いた『西洋事情』は『文明論の概略』『学問のすすめ』とならんで大ベストセラーとなった。福澤本はひろく人口に膾炙されたが、多くの謎が残った。とくにパリで具 体的に彼はいかように過ごしたのか。誰と会い、どこで 何を食べ、そして何を見て何をしたのか。

謎の肖像写真の出現が山口女史を『歴史の空白』のミステリー解明の取材行に旅立たせた。
総工費2億3300万ユーロを投じた「ブランリー河岸 ジャック・シラク美術館」は、親日政治家だったシラク元大統領が発案し、起工し、2016年にブランリー河岸美術館から「ブラ ンリー河岸ジャック・シラク美術館」と改称された。その所蔵品になかに、ガラス板のネガとポトーのアトリエで焼かれたオリジナルのプリント写真が保管されていたのである。

この写真を見てフランスの人類学者デッカーが「日本人の典型的なエリート顔」と称賛したほどだった。 表紙にかざられた写真を評者も初めてみた。精悍な風貌のなかに、きりりと立って、武士の象徴である刀を立て、野心の輝きが表情にでている。諭吉は下級武士ゆえにパリでナポレオン皇帝と の使節団との謁見には立ち会えなかったが、そればかりか最初の日々はホテルからの外出も制限され、窓からパリの町を見ていた。なぜなら日本では攘夷が盛んで外国人が襲われる事件が頻 発していたからである。

ところがパリで外出自由となるや、諭吉はホテルを飛び出し、町を巡り、好奇心の赴くままにフランス人の生活ぶり、下町の様子、図書課の蔵書に圧倒され、また議会、民主主義、その仕組み などを青年の頭脳で、感動を交えながら吸収した。多くのメモを残した。そのメモが『西洋事情』の元となる『西航記』だった。

 ▼マルタの国立図書館に遣欧使節団の記録が残っていた 

 パリ滞在中に驚くべき事件が日本でおきていた。ロシア軍が対馬に上陸して不法占拠したのだ。諭吉はパリで知遇を得たジャーナリストのロニを通じて、ニュースを知った。

 「ロニは複数のフランスの新聞記事を示しながら『ロシアの対馬占領事件』について、これらの記事が伝える通り、日本が全島を譲渡したのか否かの真偽を質した。フランスをはじめヨー  ロッパでは、ロシアが軍艦ボサドニック号を浅茅湾・尾崎に停泊させ、一時期、滞留したが、日本がそれをロシアに譲渡したという誤報が伝わっていたのだ。

 結局、英国が介入し、ロシアに圧力をかけてくれたのでロシア艦は撤退するのだが、当時の徳川幕府の軍事力では為す術がなかった。 諭吉は「島国日本の井の中の蛙状態に危機感を抱いた。  同時に日本が置かれている国際的立場の危うさや微妙さを改めて痛感した」(79p)

 「自立自尊」の信念は、このパリで遭遇した事件が大きな動機となったのかも知れない。

 

 さて諭吉もくわわっての江戸幕府の遣欧使節団は英国、ドイツ、フランス、ロシアを回って、条約改正などをおこなう外交使命も帯びていたが、インド洋からスエズを超えて地中海に入り、  最初にマルタに寄港しているのである。

 マルタに三泊四日も停泊を余儀なくされ、使節団のなかでは侃々諤々の論議が行われていた。それは英国に先行するか、フランスにまず上陸するか、欧州の情勢が日々変化しており、英国  が受け入れ準備を終えたと知ったフランスが突如受け入れを表明するという経緯があった。このときのフランスは徳川幕府への最大の武器供給国であった。

 

著者の山口さんは、マルタへも取材に飛んだ。
 まずは「国立古文書館」が保管している「港湾局の入港記録」を調べた。1862年3月28日、使節団が到着したとの記録があった。保管されていた『ロンドンタイムズ』には幹部三人だ  けが上陸を許可されたものの、諭吉ら下級武士は船から出られなかったと記されていた。

 好奇心旺盛な福沢諭吉は「甲板から早速、島の様子を観察した。それで例によって船員をつかまえては質問を浴びせ」、同時に「丘の上に聳える砲台」に驚く(たぶんバレッタ、スリーシティ  にある砲台だろう)。

その諭吉の「熱心な探求心に敬意を表し」、船員らは知っている限りの情報を教えてくれた(117p)。
 つぎに山口女史が出かけたのは「首都バレッタの国立図書館」だった。 「一行到着に関する記事を掲載した地元有力紙『マルタ・マタン』が保管されている」からだった(22p)。

 ▼費用はゆうに一億円を超えていただろう

それらの記事は詳細を極めて一行のマルタ寄港理由、代表三名の上陸、そして使節の目的に関しては訪英についてのみ、が記された。「日本の大君と合意した条約の開港に関する幾つかの条項の実地の延期をイギリス政府に要請するため」とマルタの新聞には書かれていた。

 諭吉はマルタでの三泊四日を費やした議論を通じて欧州の複雑な政治情勢を知り、また英仏の国益をぶつけた外交駆け引きを知り、生涯のテーマのひとつに「外交問題」が浮上するので  ある。このマルタで一行が先にフランスを訪問することが決まったのだった。

 またこの労作には一行の欧州全域でのホテル代など、豪勢な食事も毎晩のように行えたのだが、その費用をいったいだれが支払ったのか、外交儀礼では受け入れ国が全額を支払うが、江  戸幕府は「借りを作りたくない」として、全額を支払った事実が判明した。 今日の額面で、およそ一億円をゆうに超えた額が遣欧使節団に費やされたことも調べ上げた。(273p)

 ともかく謎の写真を撮ったフランス人写真家の行方を同時に追求しつつ、年月をかけての取材が実り、本書は知られざる福沢諭吉の謎を解明した。読み応えのある一冊である。



「おれんじ会2016 馬見塚さんを偲ぶ会」

2015年11月に亡くなられた馬見塚達雄氏の偲ぶ会が平成28年4月9日、プレスセンター日本記者クラブで「おれんじ会 2016」として開かれました。

マミさんの著作「夕刊フジの挑戦」の出版記念パーティが同じ場所で行われた(2005年3月12日)時のスライドが次々映しだされる前でそれぞれがスピーチしました。おれんじ会は言ってみれ ば山路学校のOB会ですから、山路洋子夫人から一言と献杯の音頭をいただきました。

譲さん
「静かなガキ大将」と馬見塚さんの弟、譲氏
名古屋で人材派遣の会社を経営されている弟さんの馬見塚譲氏が馬見塚家を代表して挨拶され、「8人兄弟の3男が達雄兄で5男が私です。大分県の谷村という山間で育ち、幅30メートルほ どの川を先陣を切って泳ぎ渡ったりするガキ大将でしたが、腕白ではなく静かなガキ大将で、当時から物欲がまったくない人間でした。そこら辺に散骨してくれと言っていたのが、10年ほど前に 大分に墓を買い求めたのは故郷に骨をうずめる心境に心変わりしたものとみられます」などと話されました。まるで物欲のない人柄は、その後おつきあいした産経、夕刊フジ時代の同僚、後輩も 等しく認めるところでした。

幹事を代表して酒井聖爾さんが、野球好きの一面を。社内野球で豊洲のグラウンドで、ピッチャー酒井、キャッチャー馬見塚のバッテリーで戦い、強豪、地方部相手に6-0で大勝した思い出を。 バックには山路昭平御大や今とほとんど外形が変わらない競馬班の今田忠臣氏の若かりし姿が映し出されました。

山下幸秀氏はマミさんが警視庁サブキャップ時代に下につき「それまでは切った張ったの社会部だったが、事件そのものより裏話や人情話の記事を求められた。これはさらに取材力と表現力を 求められ、頭脳的な記者への変身をはかるもので、みな懸命に勉強したものだ」とマミ流「シンキング・プレイヤー」の一端を披露しました。

「おれんじ会 2016 馬見塚さんを偲ぶ会] で発行された追悼の号外(マウスのスクロールで全6ページが見られます

文章もうまかったけれど書くのも早く、いったん事件となれば「マミーよペンを取れ」と言われた人でしたが、この日その一言を見出しにした「夕刊フジ おれんじ会」号外が配られました。 整理部の志波吉勝氏の力作で、マミさんが釣りキチに変身したいきさつを今やへラブナ釣りの大家として専門紙に名をはせる同じ整理部の川上魚昇(浩一郎)センセイが解き明かす文章、「夕刊 フジの挑戦」を書くにあたって取材の趣旨を書き送ったマミさんの一文、同僚、後輩の追悼の言葉など、6ページぎっしりに馬見塚さんの横顔が浮かび上がっています。

幹事団が打ち合わせの時、日本記者クラブの専務理事をしていた産経OB氏が通りかかってゲラをみて「こんな追悼号外をすばやく作るなど夕刊フジでないととてもできないことだ」と感嘆し ていました。6ページ全部をPDFにしてここに掲載しました。スクロール(マウスのホイールボタンを回せば順送りになります)で全ページ閲覧できます。

馬見塚さんは競馬班のリーダーでもありました。こちらの側面も忘れてはならないと榎本正男、今田忠臣、嵯峨厚生の各氏が結集、最後まで夕刊フジに連載していた「”馬じい”品川達夫の  継続は非力なり」の原稿を配布しました。亡くなるまで「現役競馬記者」だったマミさんでしたが、司会の芝沼隆一さんに促されて品川達夫の生涯の収支決算を告白していました。ものの見事  に全員「マイナス」でした。これも弟さんがいう「物欲のなさ」の成せるワザでしょうか。

多くの人が馬見塚さんへの一言スピーチに立ちました。本光繁幸氏が「東京社会部から夕刊フジに来た藤村、細谷、大貫、尾登がみな故人となり、ずうと一緒だったマミさんも鬼籍に入り私 一人になりました。トシを取ったと思います。寂しいです」と。81歳だそうです。千野境子さんが「原稿にさっと手を入れてもらうと格段によくなる方でした」とぞくぞくとスピーチが続き ました。今やおれんじ会で最長老となった写真部のドン、川島吉雄さんは86歳だそうです。

最後に現役を代表して夕刊フジ編集局長、勅使川原豊氏が「馬見塚さんはじめ多くのOBの遺産のおかげでしょう、このところ黒字になりました。頑張ります」と現状報告。この日集まった 現役は勅使川原編集局長はじめ、別府育郎(論説副委員長)、清野邦彦(夕刊フジ運動部長)、田中規雄(「産経抄」筆者=全週日担当)、三保谷浩輝(産経地方部長)などみなさん馬見塚 編集局長時代に独自に夕刊フジ採用された新人か若手記者です。

夕刊フジは新聞界に挑戦してタブロイド革命を起こしましたが、また見事に人を育てたことが分かります。その「オレンジ色のにくい奴」はあと2年後に創刊50周年を迎えます。

下は三好英輔カメラマン撮影の全員の集合写真です。=敬称略=
馬見塚さん偲ぶ会
(後列左から)三好英輔、勅使川原豊、三保谷浩輝、芝沼隆一、清野邦彦、山本ヒロ子(FCG総研で馬見塚さんと一緒)、萩原正人、尼崎朋之、野津修敏、志波吉勝、森克蔵、 榎本正男、石川荘太郎、別府育郎、下條勝也、中西幸一、生井昇、大山宰治、菊地克之、嵯峨厚生、小林誠、佐伯浩明、佐々木浩二、佐藤将臣、長堀敏夫、千野境子、縣 忠明
(前列左から)宮崎健、川島吉雄、山下幸秀、馬見塚譲、山路洋子、酒井聖爾、本光繁幸、佐藤実、今田忠臣
(このほか途中退席の鳥居洋介氏入れて参加者38人でした)



「おれんじ会2015」に33人

2015年10月29日、久しぶりの「おれんじ会 2015」が東京・千代田区内幸町、プレスセンター内の日本記者クラブで開かれました。

「このところ亡くなった先輩や同僚の偲ぶ会を兼ねることが多かったのですが、今回は夕刊フジ創刊メンバーの一人で報道部、学芸部で活躍、1990年から21年間、産経新聞パリ支局長を努め、一昨年フランス政府からレジョン・ドヌール勲章シュバリエを受勲した山口昌子さんがこのほど帰国したので、その歓迎会を兼ねてのおれんじ会です」(案内文から)ということで33人が集まりました。

オレンジの旧社旗のもと芝沼隆一さん(広報誌アドバイザー・出前講師=名刺から)の司会ではじまりましたが、冒頭まずマミさんの健康状態の報告から。馬見塚達雄さんはおれんじ会の「永世幹事長」で今回も中心になった整理部の諸氏とともに準備に明け暮れていましたが、9月15日体調不良で自分で救急車を呼んで自宅近くの昭和大学病院(品川区旗の台)に入院しました。軽い脳梗塞のようでしばらく入院生活が続くと思われます。

何人か見舞いに訪れたようですがご本人からの伝言で「心配かけてすみません。お見舞いは遠慮します。体重30キロ維持と体力の回復にがんばります」とのことです。

三好カメラマンの奮闘で当日の模様は293枚の写真が撮影されCDに落としたものが全員に配布されましたが、メーンの集合写真から出席者氏名を紹介します。このほか途中退席の別府育郎さん含め参加33人でした(敬称略)

おれんじ会2015
(4列目左から)芝沼隆一、長堀敏夫、志波吉勝、佐藤実、嵯峨厚生、佐藤将臣  画像クリックでさらに拡大
(3列目)安藤徹、榎本正男、萩原正人、清水孝夫、宮崎健、野津修敏、石川荘太郎、小林誠、大山宰治、大見信昭、石川郁子
(2列目)三好英輔、本光繁幸、酒井聖爾、島谷康彦、川島吉雄、山路洋子、山口昌子、松村維予子、村井禮仁
(1列目)鳥居洋介、三保谷浩輝、佐々木浩二、片山雅文、勅使川原豊、尼崎朋之、矢村隆男

2013年3月亡くなった松村幸夫氏の維予子夫人が初めて参加され、その2年前に鬼籍に入った山路昭平氏の洋子夫人、「夕刊フジに所属したことはありませんが昌子さんの同期生として参加」の石川郁子さんなど女性軍は4人でした。特筆することは現在の夕刊フを支える現役諸氏がこぞって参加されたことです。

現在の夕刊フジ代表・片山雅文、前の夕刊フジ代表で産経デジタル(ZAKZAK、産経Webなど新聞社のサイトを統括)社長・鳥居洋介、夕刊フジ編集局長・勅使川原豊、夕刊フジ報道部長・佐々木浩二、夕刊フジ営業局長・尼崎朋之、産経新聞地方部長・三保谷浩輝、産経新聞論説委員・別府育郎の面々で夕刊フジ採用の人材が現在の産経新聞の屋台骨を支えていることを目の当たりにしました。

村井さんははるばる九州から参加 トシはとっても顔は昔のまま。
女性の参加が4人 この日のメインの山口昌子さんと山路洋子さん。
川島吉雄さん 本光繁幸さん 佐藤実さん
川島吉雄さん 本光繁幸さん 佐藤実さん

夕刊フジの現役諸氏も参加 勅使川原・編集局長と片山・夕刊フジ代表



追悼  丸山正一さん

丸山正一さん
マルさん最後のおれんじ会出席(2009年11月7日)。両脇は今は亡き松村、山路御大。
芸能記者として活躍されたマルさんこと丸山正一さんが今年5月亡くなりました。この「夕刊フジOBのページ」の管理人(宮崎)も先日の「おれんじ会 2015」の席で初めて知りました。

丸山老人におれんじ会のことで連絡した志波吉勝さんが息子さんから聞いたところによると、亡くなったのは今年の5月27日、93歳でした。「老衰で…」と息子さんが言っていたそうです。

直近でマルさんとお会いしたのは2009年11月7日、横浜・野毛に有志12人が集まったときでした。この時の様子はこのOBのページの「おれんじ会有志集合」に掲載しましたが。マルさんは矍鑠としたもので、みんなに千葉産(マルさんの自宅は千葉県柏市)のピーナッツを配っていました。

ただこの2,3か月あと娘さんから宮崎のもとに電話で「父が夕刊フジの会に行かなければと出発準備をしているのですが、ホントにあるのでしょうか」と問い合わせがありました。認知症が現れ始めたそうです。マミさんと相談して以後は夕刊フジの集まりがあるときはご家族に連絡することにしました。その後ご家族から症状が進み老人ホームに入られたということを聞きました。

マルさんは岸惠子、有馬稲子、久我美子のいわゆる「にんじんくらぶ」三大女優と親しく、なにかと相談を受けるほどでした。岸恵子が主演した縁で1957年、イブ・シャンピ監督と結婚、娘デルフィーヌ・麻衣子・シャンピをもうけたあと、1975年離婚するまで逐一事情を熟知していて相談も受けていました。フランス旅行したときパリの岸恵子宅に招かれたほどです。

作家の今東光が選挙(1968年参議院議員選挙全国区)に自由民主党から出るとき、乞われて秘書として河内の天台院まで社命で産経に籍を置いたまま出向きました。大阪から戻ると山路昭平編集局長(当時)がいる夕刊フジにやってきました。10歳ほど上ですが「ヤマちゃん」「マルさん」と呼び合って四谷や銀座の飲み屋に連れだって出かけていたものです。

作家の瀬戸内晴美が出家して寂聴と名乗って尼寺に入ることをスクープしたのはマルさんです。このとき、飲み屋で山路・丸山両大先輩に同席したので聞いてましたが、瀬戸内晴美が足しげく相談した今東光がネタ元なのですからこれ以上確かな情報はありません。「それ書けるか」「本人(瀬戸内晴美)に通さなくとも今さんだけで大丈夫です」という会話で翌日の夕刊フジのスクープが決まりました。

日比谷の東宝映画街のビルの一角にある行きつけの店によく連れて行ってもらいましたが、その時のことを「なに、男遍歴に疲れ果て追い詰められての出家よ」とまだ存命の瀬戸内寂聴が聞いたら怒りそうな裏話を聞かされました。寂聴尼は最近の安保法制反対デモの先頭に立ちアジ演説したり相変わらず生臭くご活躍ですが、10指で足らない浮名を流したことで今様「宇野千代」の評がありますが、それもそのはずで、師匠の今東光先生自身、宇野千代の指の1本に入っています。

マルさんは夕刊フジの営業にもずいぶんと貢献しました。「男はつらいよ」の寅さんシリーズの上映会は夕刊フジのドル箱でしたが、当時フィルムは外に貸し出さないことになっていたのにマルさんが松竹と話をつけてくれたおかげで全48作を貸し出してくれることになってはじめて実現した企画です。これより前、私が「ぴいぷる」取材で山田洋次監督にインタビューすることになったとき、1,2本しか映画を見ていなかったので松竹本社の試写室で一挙に数本(当時は全作品)見せてもらったのもマルさんの計らいでした。

温和ですが時には爆発することもあり、酔っ払いにからまれた時「うるせえ」と一発食らわせてノックアウトしてしまいました。訴えるという相手を警察署の次長(どこの署だったか忘れたが)をとおしてドヤしつけてもみ消したのは植木賢記者でした。

2002年11月28日布美江夫人を亡くされてからめっきり小さくなったように思います。夫人の踊りの会に何度か招かれた縁で通夜に出ましたが、あの強気のマルさんが肩を落として「参った、参った」と繰り返していました。アルツハイマーを発症したのはその数年後でした。

マルさんは各世代にわたって気持ちよく付き合いがあった方なので、人それぞれ思い出があるかと思います。思い出の記を募集します。この項がある掲示板またはメール(miyazaki@t00.itscom.net)で投稿ください。ネット追悼禄として順次掲載します。写真も頂戴します。(宮崎健)




『フランス流テロとの戦い方』(山口昌子)

昌子さん表紙
昌子さんの本の表紙
山口昌子さんが『フランス流テロとの戦い方』(ワニブックス・830円+税)を出版しました。イスラム教過激派によるあの事件を受けてのものです。2015年4月8日、夕刊フジに以下のようなブック紹介の記事が掲載されました。勅使川原豊編集局長からその紹介文が画像とともに送られてきました。

 全世界を震え上がらせたフランスの風刺週刊紙「シャルリ・エブド」襲撃事件。直後にフランス全土に広がった「私はシャルリ」という反テロスローガンに著者は「フランスの国のかたち」を見て取る。シックでエレガントなモードやグルメの陰に「強固で強靭(きょうじん)で頑固で、あきれるばかりの自尊心と自負に富んだ『国のかたち』」とは、「表現の自由」は死守されるべきものというフランス革命以来の絶対的な価値観だ。

 

 一方で、フランス社会は北アフリカなどからの移民を多く抱え、イスラム国や反シリア勢力に参加する若者が後を絶たず、国内に潜伏するテロリストの脅威は少なくない。そんな中、イスラム国への軍事作戦強化、イスラム教徒の過激化を防止する法整備、市民全員でテロに立ち向かう包括市民サービスなど硬軟取り混ぜたテロ対策を打ち出している。その正否は。 フランスを知り尽くすジャーナリストの全世界注目の緊急リポートだ。

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記事
サンケイEXの記事(画像クリックで読める程度に拡大されます
というものですが、内容はもうひとつわかりません。先にサンケイEXに昌子さんが書いた一文がありましたので、画像として上に掲載しておきます。ご本人は現在、パリに戻っています。パリに戻るのは滞在許可証を更新するためだそうで、5月に本格的に日本に戻るといいますからまた会う機会があるかと思います。




島谷康彦さんの新著

やじうま広報塾
「やじうま広報塾」
今年83歳になる夕刊フジOB、島谷康彦さんが新著を著しました。
実践!「やじうま広報塾」といい、サブタイトルには「嘘はつくな、逃げるな、隠すな! これが広報の基本だ」と中身を表す惹句が並んでいます。

20年前に企業の若手広報マン30人を集め「やじうま広報塾」を発足させて現在もその塾長をつとめています。

この本では特に1章を設けて山路昭平御大の最期について特筆されています。もう47年も前になりますが創刊時の様々な出来事、逝った戦友のことも含めてしばし思い出にひたりました。




松村さん偲ぶ・おれんじ会

昨年3月に亡くなった夕刊フジ創刊の立役者の一人、松村幸夫さんを偲ぶ会が、おれんじ会によって2014年4月12日午後、日比谷のプレスセンターで開かれ、故人と公私にわたっ て親交が深かった電通関係者も含め45人が出席しました。宮崎は時間を間違えて終了時に到着するというドジでしたが、皆さんの温情で小学校の写真にあるように窓枠で入れて頂きました。

記念撮影
おれんじ会と電通OBなど45人が集まった

松村さんと産経・大阪の同期入社で、夕刊フジ創刊時にも同時に参画した村井禮仁さんが佐賀から上京、松村さんに支えられること大だった上司、故山路昭平さんの洋子 夫人も出席されました。何事もきちんと「割り付け」する整理部OBが仕切っただけに、会場のスクリーンには、夕刊フジ仲間との懐かしい映像がつぎつぎに映し出され、 1周忌というより、懇親会のような和やかな雰囲気のなか懐旧談に花が咲きました。電通OBからは、往時の松村さんのず仕事への打ち込み、豊富なアイデア、決断力などが語 られ、また村井さんや、やはり同期だった本光繁幸さんによる「どうしてもボクが敵わなかった松ちゃん」などの思い出話に、一同頷いたりシンミリしたり。


臨時号外
元整理部で編集された追悼特別夕刊フジ紙面
OBの一部
懐かしいOBの一部です
夕刊フジの片山雅文現代表から「創刊当時の情熱と苦労を描いた『夕刊フジの挑戦』に感動した。いま即売紙は売店の減少や活字離れでどこも苦戦しているが、その中でフジは 、昨年後半からの韓国、中国への厳しい批判、姿勢が共感を呼んで紙勢は上向きだ。先行を許しているゲンダイを追い越す日も近い」という心強いコメントも、生涯「夕刊フジ愛」 を貫いた松村さんへの良い手向けになりました


スライドショー
整理部・芝沼さんの力作スライドショー
整理部OBを送るために元整理部員が特別に制作した 夕刊フジ特別追悼号 も臨時発行され、これまで鬼籍に入った野呂瀬務氏、土屋達彦両氏と併せて追悼号が配布されました、また芝沼隆一さん製作によるスライドショーが映し出され、合間 にたくさんのOBなどからのスピーチがあったにもかかわらず、開始が午後1時、終了が3時、1分と狂わず進行した のも、締め切りにうるさかった整理部仕込みゆえでしょう。 (馬見塚達雄)

出席者】 阿部 耕三、尼崎 朋之(現夕刊フジ営業局長)、安藤 徹、石川 荘太郎、榎本 正男、大見 信昭、大山 宰治、片山 雅文(現夕刊フジ代表)、川島 吉雄、菅野 和明、菊地 克之、黒田 基男、古閑 正、小林 誠、小森 照生、佐伯 浩明、酒井 聖爾、嵯峨 厚生、 佐藤 将臣、佐藤 実、志波 吉勝、芝沼 隆一、島谷 泰彦、下條 勝也、清野邦彦(現夕刊フジ運動部長)、田代 実、田中 健雄、 千野 境子、勅使川原 豊(現夕刊フジ編集局長)、中西 幸一、西出 義宗、萩原 正人、馬見塚 達雄、宮崎 健、村井 禮仁、本光 繁幸、森 克蔵、山路 洋子、矢村 隆男

<電通関係>
歴代の電通産経担当
歴代の電通・産経担当も勢揃い
上野義矩、横田地克成、田村正孝、三浦浩、石川清貴
馬見塚さん
おなじみになった馬見塚さんの司会で






正月、山口昌子さんと会いました

昌子さんと
一時帰国中の山口昌子さんと会いました

2014年1月9日、昨年から一時帰国中の山口昌子さんと夕刊フジOBがプレスセンターで食事がてら懐旧談にふけりました。集まったのは連絡がとれた馬見塚達雄、萩原 正人、宮崎健の4人。

マミさんから、松村幸夫氏の偲ぶ会は整理部OBが中心になってすすめられていて、4月12日の土曜日午後1時から、ここプレスセンターを予定していること。偲ぶ会となると交際範囲の 広い人だったのであちこちに声をかけなければならないので、今回は夕刊フジの「おれんじ会」の催しとしてやるようだ、と話がありました。

マミさんは昨年夫人を亡くされました。「夕刊フジの挑戦」出版記念の集いでは夫妻そろって同じプレスセンターにお見えになったので覚えている方も多いかと思います。 9月に亡くなられたのにそれを伏せて10月の土屋さんの会合や旧友会などに出席、暮れの喪中はがきで初めて知って驚いた方が多かったと思います。一度は故郷の大分に 帰ろうと思ったそうですが、このまま現在の品川の家に住むことにしたそうで、今後もOB会の世話をしていただけそうで安堵しました。

昌子さんは「フランスと言うと岸恵子が広めたようなイメージを持つ人が多いけど、それとは違う一面を書いている」そうです。でもこれでは世間受けするテーマではないので、 出版社探しが大変、と言うことでした。1月下旬に再び渡仏、5月にまた来日するそうです。

萩原氏はがんの手術を受けたもののその後は順調で、先日受けた検診の結果待ちとか。ニコンの小型カメラを持参、これがIT時代の優れもので、型落ちで2万5000円で手に入れたが、 数センチの接写から広角撮影、中望遠、はてはビデオ撮影までこれ1本で間に合うそうです。今回の写真はそれで撮影したものですが、ご覧のとおりシャープです。宮崎は現在のキャノンを早速 買い換えたいと決心た次第。




「土屋達彦・出版記念の集い」

土屋達彦挨拶
病室から駆けつけ挨拶に立った土屋達彦さん
夕刊フジ報道部に在籍、その後独立して雑誌を 発行したり、広報会社を設立したりしてきた土屋達彦さん(72)が「叛乱の時代━ペンが挑んだ現場」(トランスビュー社刊) を上梓、その出版記念の集いが2013年10月17日、東京・有楽町の日本外国特派員協会20Fを会場に開かれました。

土屋達彦著書
大作『叛乱の時代━ペンが挑んだ現場』
この本は「60年安保」のさなかに高校、大学生活を送り、 大森実の「東京オブザーバー」記者から産経新聞浦和支局の地方記者、夕刊フジ報道部記者と渡り歩いてやがて独 立する著者の人生を縦糸にし、横糸にはその間 の取材で首を突っ込んだ佐世保のエンタープライズ寄港阻止運動、成田闘争、日大闘争、安田講堂攻防の東大闘争、連合赤軍事 件や取材の深みから逮捕寸前にま 至った朝霞自衛官刺殺事件など出くわした新左翼全盛時代への関わりをドキュメンタリー風に織り込みながら途中出会った人間模様を実名 で登場させる大作です。

パーティーでは草刈隆郎元日本郵船社長、亀井静香衆議院議員、福井惇元産経新聞社会部長、など著者と親しく交わった人たちがスピーチに立ち、この本を書き上げるまで の彼の壮絶な闘病生活の一端を紹介しました。胆管がんで「余命1年」と宣告されながらその後3年余にわたり入院先の築地がんセンターの病室で大作を書き上げたというこ とです。今も入院中で、この日のパーティーだけ一時退院を許され会場に来たものの時折別室で休憩しながら参会者に挨拶をしていました。

本の奥書に「本書を、はるみに捧げます」とある昨年再婚した夫人も会場に姿をみせていましたが、多くの人にとってこれが初めての拝見でした。途中ヴァイオリニストの 天満敦子さんの演奏などがあり彼の幅広い交友関係を伺わせるものでした。

夕刊フジからは山路昭平夫人、馬見塚達雄、島谷泰彦、志波吉勝、石川荘太郎、加藤雅巳、宮崎健の各氏が出席、マミさんと宮崎がスピーチを求められ 、それぞれそ れ夕刊フジ時代の彼の人となりの一端を紹介してきました。好漢・土屋達彦氏の健康を願うや切です。



山口昌子さんへの叙勲式

レジオン・ドヌール
クリスチャン・マセ駐日フランス大使から
レジオンドヌール勲章を受ける山口昌子さん
山口昌子さんが仏レジオン・ドヌール勲章シュヴァリエを受けるニュースは1月に紹介しましたが、その後大統領の訪日などがあり、大使の日程調整もあってやや遅ればせ ながら、その叙勲式が6月24日午後6時半から、東京・港区南麻布にあるフランス大使公邸で行われました。

公邸は大使館の裏手にありますが、鬱蒼とした木々に覆われて周りのビルなど一つも見えず、都心にこんな別天地があったかという趣のところで、 まず自身も同じレジオン・ドヌール勲章シュヴァリエに叙されているクリスチャン・マセ駐日フランス大使が、昌子さんの長年の新聞記者としての活動や「ドゴールのいるフラ ンス━危機の時代のリーダーの条件」」など著作を通じて日仏文化交流にはたした功績を紹介、ナポレオンに始まる勲章の由来などを説明、ついで傍らで衛兵が捧げ持つレ ジオン・ドヌール勲章を受け取り、昌子さんの左胸に付けると数十人の参列者から大きな拍手が送られました。


昌子さんあいさつ
レジオンドヌール勲章を胸にお礼の言葉を述べる山口昌子さん
ついで山口昌子さんが夕刊フジ在籍の時、仏政府の給費留学生として渡仏した時から産経新聞パリ支局長として30数年に渡るパリでの記者生活を振り返る思い出話をして 、日本に戻っても日仏文化交流に役立ちたいとお礼の言葉を述べました。

熊坂隆光産経新聞社長の音頭でシャンパンで乾杯のあとカクテルパーティーになりましたが会場には清原武彦・産経会長、日枝 久・フジテレビ会長の姿もあり、夕刊フ ジOBでは馬見塚達雄、加藤雅己、宮崎健の3人が出席しました。元同僚への最高勲章にこちらまで晴れがましい思いをしました。





松村幸夫氏が亡くなりました

松村幸夫氏
松村幸夫氏(2012年の山路さん一周忌で)
松村幸夫さんが去る3月16日に亡くなりました。葬儀は近親者のみですませています。ご本人の生前からの意向で、公にすることは控えていましたが、8日(月曜日)に 夕刊フジ時代の同志で、「おれんじ会」の幹事だった者や、松村さんとの縁がもっとも深かった故山路昭平社長の洋子夫人らと目黒区のご自宅にお線香をあげに行ってきま した。維予子夫人もいくぶん気持ちの整理がつかれたようで、一同ホッとしています。これで一区切りがついたので、この欄でお知らせします。

松村さんは夕刊フジ創刊時、永田照海さんや山路さんらと、大阪産経から昭和43年に上京、整理の直接の担当者として「オレンジ色のにくいヤツ」の斬新な紙面構成を作 り上げました。その後、営業に転じて、編集とのコラボを成功させるなど、夕刊フジ発展に大きな役割を果たしました。産経本紙に抜擢されてからも常務取締役営業局長を務 め、退職後も広告会社を立ち上げて後年まで精力的に活躍していました。ご冥福を祈ります。(馬見塚達雄)

夕刊フジ創刊メンバーがまた一人‥

このサイトへのアクセスが通常の3、4倍になっていたので、多くの方が情報を求められていたことと思います。松村幸夫氏の訃報の掲載が遅れた事情を説明します。

突然の知らせを 受け取ったのは全員3月27日配達の子息からのはがきでした。「葬儀は故人の希望により近親者にて3月23日に滞りなく相済ませました」とありました。驚いて馬見塚 さんが電話を入れましたが、ご遺族に故人の遺志を通したいとのかたい意向が あり、また産経新聞総務局からの問い合わせもありましたが訃報の掲載なども固辞されたので、報告を控えました。馬見塚さんのたっての願いを聞き入れていただき、4月8日に 夕刊フジを代表するかたちで、馬見塚さん、山路洋子さん、山崎能婦子さん(岡山放送時代の秘書)、酒井さん、小笠原さん、志波さん、島谷さん、宮崎の8人で都立大学前のお宅を 弔問して来ました。

心筋梗塞を起こし、救急車で近くの駒沢にある国立病院機構東京医療センターに運ばれ、2度のカテーテル手術をしたということです。内視鏡手術だったので負担もそれほどなく本人も 元気で3度目のカテーテル手術を待つ間家族も入れ替わり詰めている時に今度は脳梗塞を発症して帰らぬ人となった、という説明でした。

筆者(宮崎)はケイタイを忘れて帰り、夫人から連絡をいただいて翌日取りに伺い、夫人と昔話をしました。日吉の社宅で一階と二階にわかれて住んでいたのですが、 当時からワンマンだったので、ずっとあの調子ですか、 と聞いたところ「そりゃもう、ずっとわがまま放題。好きなように過ごして本人は幸せだったと思います」とのことでした。松村さんの実家は三重県の鈴鹿の奥の方の旧家です。宮崎は津支局と四日市 通信部時代に管轄だったのでこの辺りを知っているので、よくふるさと談義をした覚えがあります。

日露戦争の時の旅順港閉塞作戦で、軍神・広瀬中佐の「杉野は何処‥」の歌を知っている方もいるかと思いますが、鈴鹿はその「杉野兵曹長」の出身地で、駅前に銅像(現在は記念碑)があるのですが、 古い世代でないと 話が通じないので「あんたも古いなあ」と言いながら、これまた大阪社会部あたりでしか通じないのですが、永田照海キャップ、山路昭平記者が舞鶴の引揚船「興安丸」で 繰り広げた武勇伝を酒の肴に飲んだものです。

見出しのセンスは抜群でした。出てきた原稿からいったん離れて言葉を探すのが松村さんの「手口」だと”喝破”したところ、「お前には勝てんわ」と言われたことがあります。 勝てんのはこちらの方でした。誰も考えなかった夕刊フジのスクラップを始めたのは松村さんでした。いずれ必要になる、とマイクロフィーダーによる保存もそうです。「ぴいぷる」を担当した時、 全登場人物の掲載日、取材記者がわかる「松村ファイル」をもらいました。森博、千野境子とその後の担当デスク各氏はみな重宝したものです。「整理魔」の他「転居魔」の一面もありました。 今年の年賀状は返ってきました。転居先を書き漏らしたためです。4、5回くらいかと思ったら整理部OBによると「8回」とか。当然今回全員が初訪問でした。

夕刊フジ創刊で大阪から第一陣として昭和43年暮れに上京した永田照海、山路昭平、中川朗、雪山隆弘の各氏すでになく、今度は松村幸夫氏。残るは原口順安と宮崎くらい。翌 年の第二陣も小田孝治なく、残るは小泉良夫、岡芳輝‥。夕刊フジの兵(つわもの)どもが夢の跡です。(宮崎健)




山口昌子さんに仏レジオン・ドヌール勲章

正月からうれしいニュースです。まず2013年1月8日の産経新聞から。

山口元パリ支局長に仏勲章
 【ベルリン=宮下日出男】産経新聞の山口昌子元パリ支局長に対し、フランスのレジオン・ドヌール勲章のシュバリエ(5等)が授与されることが決まった。フランス首相府が  7日までに官報で公表した。 レジオン・ドヌールは仏最高章で、5等級ある章のうち、シュバリエなど3つの等級は日仏間の経済・文化交流の功労者にも与えられる。官報によると、山口氏は49年にわたる ジャーナリスト・作家活動が認められた。 山口氏は2011年秋まで産経新聞記者として活躍し、パリ支局長を21年間務めた。

◇ ◇ ◇

レジオン・ドヌール
レジオン・ドヌール勲章はナポレオン・ボナパルトによって1802年の5月19日に創設されたもので、平時戦時に軍人や文化・科学・産業・商業・クリエーションなどの分野での民間 人の「卓越した功績」を表彰することが目的で、大統領が選定する。山口昌子さんは2010年1月に国家功労勲章のオフィシエ章を受章していてこの模様はこのサイトでも掲載してい ますが、今回はそれより格段に上の勲章です。

レジオン・ドヌールには等級があり、高位から『グランクロワ』(Grand-Croix, 大十字)、『グラントフィシエ』(Grand-Officier, 大将校)、『コマンドゥール』(Commandeur, 司令官)、『オフィシエ』(Officier, 将校)、『シュヴァリエ』(Chevalier, 騎士、勲爵士)の5階級に分かれる。

フランス人がレジオン・ドヌールを受賞するのには公務員なら20年以上勤続しているなど厳格なルールがある。シュヴァリエ、オフィシエ、コマンドゥールは外国人でフランスに 対して経済、文化交流の発展などで功績があった人物に与えられ、日本人も伊藤博文など明治初期から受章者がいて、戦後では川合玉堂(日本画家)、山田耕筰(作曲家)、黒澤明 (映画監督)などの文化人、政治家なども受賞している。これまでに約1500人の外国籍の受賞者がいるが、その1割が日本人である。

◇ ◇ ◇

実はこのニュースがあった前々日の5日に、筆者(宮崎)は昌子さんと会っていました。昌子さんから年末に一時帰国したと電話をいただきましたので、プレスセンターで待ち合わ せたのですが、正月休みで閉まっていて、近くの帝国ホテルで2時間ほど近況を聞きましたが、受賞のことは出ませんでした。馬見塚さんも誘ったのですが、パソコンが不調でこの 日に間に合わず、後日会うそうです。

東京で家探しや健康診断を受けるなどして26日くらいに一旦フランスに戻ると言ってましたから、向こうで勲章を受けることになるのだろうと思いますが、そのあとマンションなど を整理して帰国するようです。そのときまた夕刊フジOBの皆さんと会う機会を一席設けたいと思います。




千野境子さんの新刊本

全国紙では女性初の論説委員長として活躍してきた千野境子さんが7月末で45年間勤務した産経新聞を退社しました。今後も客員論説委員として執筆を続けるそうですが、ひとまず 大手町からは去ることになります。同じくながらくパリ支局長として健筆をふるってきた山口昌子さんもフランスを離れ年内に帰国するとのことです。これで夕刊フジOGは久保田るり子 さん一人になります。

千野さん著作
千野さんの「女性記者」
千野さんは同時に「女性記者」(産経出版)を出版しました。恵送いただいた本に同封の挨拶文によると、自らの記者人生を振り返るとともに過去7年あまり煮執筆した 「風を読む」「土・日曜日に書く」「遠い響 近い声」の新聞コラムからまとめたものだそうです。

そのなかに、夕刊フジの思い出話があります。配属されたのは1969年7月で、なんと16年間もいたそうで「毎日違う映画を観ているようなものだった」という思いは、同じ頃机を並べた 者なら同感でしょう。

嫌がる(たぶん)千野境子記者を陸上自衛隊の東富士演習場まで引っ張り出し当時最新鋭の「74式戦車」に乗せたのは筆者(宮崎)です。ワイド面デスクとして自衛隊が「女乗せない」と していた航空自衛隊のジェット戦闘機に土井あや子記者、海上自衛隊の潜水艦に山口昌子記者、そして戦車に千野記者という最新鋭兵器への女性記者搭乗企画をたてました。潜水地点まで 一昼夜、救難艦までふくめると最低でも4隻、数百人の兵員を動かすことになるのでご勘弁を、というので潜水艦だけは断念したもののあとはみな実現しました。山路さんの1周忌で「覚えて いる?}と聞いたら「忘れるものですか」ということでした。




山路さん一周忌・「偲ぶ会」に54人

山路さん
山路さん逝って1年
43年前、型破りの「オレンジ色の憎いやつ」夕刊フジを創り、大きく育てて独自の夕刊紙文化を確立し、多くの人に敬愛されていた山路昭平さんが亡くなって、5月25日で一年 になります。

山路家の一周忌法要はお身内だけで行われるとお聞きしましたが、われわれ夕刊フジの生き残りOBは厳しくて温かかった故人の人となりを懐かしく思い浮かべ、夕刊フジのさらな る発展に努力している後輩諸兄としては、この一周忌を期に、改めて故人の業績、生き方に学んでそのエキス、パワーを吸収してほしいと思い、「おれんじ会」による「偲ぶ会」を 催します。


山路一家
山路さんのご家族
会には洋子夫人はじめ山路家のご家族も出席される予定で、「家ではあまりよく 知らなかった故人のことを皆さんからお聞きしたい」とのことです。

引揚げ船「興安丸」取材時の山路さん
引揚げ船「興安丸」取材時の
ダンディーな山路さんの写真も
披露された
また会ではここ一年半の間 に亡くなった小田孝治さん、細野憲昭さん、金田浩一呂さん、星裕さんも偲びたいと思います。(案内状から)




馬見塚達雄氏
今回も一切合財仕切っていただいた
馬見塚達雄氏
村井禮仁氏
九州・佐賀から村井禮仁氏さん
ということで会のほうは夕刊フジ「おれんじ会」主催で2012年6月16日(土)午後2時から日本プレスセンタービル9階宴会場で開かれました。
馬見塚さんの挨拶と物故者への黙祷のあと はるばる九州・佐賀からかけつけた元整理部の村井禮仁氏に敬意を表して彼のスピーチからはじまりました。夕刊フジには8年いたそうですが風格からはその3倍はいた感じですが「山路さんが 生きてれば一昨日17年ぶりに捕まったオウムの高橋克也(54)の記事をどう作ったろうかと考えた。長い逃亡生活の内容に焦点をあてた指揮をしたのでは」と新聞作りの思い出話。

付け足すようで恐縮ですが、当時のスタッフなら何も言われなくとも逃走ルートをたどり、すれ違った人間のコメントを集める作業に動いていたと思います。それが出来ないときカミナリが 落ちたものです。


参会者
井上朝文さん(左から2人目)は秋田からはるばる
参会者2
往時のおもかげそのままのOBでおわかりでしょう。
清水孝夫、大森浩、黒田基男、平野光男、中西幸一の各氏(左から)

加藤雅巳さん
加藤雅巳さん
千野境子さん
千野境子さん
会田茂氏の献杯のあいさつのあと今月の株主総会で広告会社のクオラスの 社長に昇格する加藤雅巳氏が、不況で給料は上がらないんだといつものようにぼやきながらマイクの前に。「皆さん怒鳴られた話が多いが自分は怒られたことがない」と。

続いて千野境子さんも「私も怒られたことがない」話を。そういえば山路さんは若手と女性には甘かった。女性には「にやけの昭平」と言ったほうがいいくらいで、バーや飲み屋の 女将にはやけに下手に出ていたなあ、と怒られ役だった筆者などひがみが出ました。それにしても千野記者の祝い事にあの細野憲昭氏が両手いっぱいのバラの花束を抱えて訪れたという 話には驚きました。

千葉県旭市での彼の葬儀ではお姉さん3人に本当に可愛がられて育ったのがよく分かりました。嫁さんの話も何度か持ちかけたそうです。何を好き好んでチョンガーを通したのか。本当にバカヤロー で親不孝な奴です。限りなくやさしい男だったんだなあ。

鳥居洋介夕刊フジ代表
鳥居洋介夕刊フジ代表
島谷泰彦さん
島谷泰彦さん
鳥居洋介夕刊フジ代表が勅使川原豊編集局長、佐々木報道部長などの現在のスタッフの紹介と即売界は厳しい状況がつづいているが少し曙光も見えている、先輩方是非社を訪ねてアドバイスを と述べこの日の夕刊フジを配布してくれました。確かに以前の馬鹿みたいに大きい見出しは姿を消しインタビューものが増えてきた感じがします。

島谷泰彦さんが松下政経塾の創生期に講師をしていたことはあまり知られていませんが、そのときの塾生と現在多くを占める民主党政権の塾出身者についてひとこと。野田佳彦首相 が裸一貫千葉から立ったとき辻説法の手伝いをしたこともあったそうです。


宮崎健
宮崎健も大阪時代を
筆者(宮崎)も指名を受けて大阪社会部は永田照海親分、山路昭平現場監督が怒鳴りまくっていた「飯場」のようなところだった話をしました。ついでに東京に来ることになったとき 雪山と二人笹井デスクに呼ばれ「近頃ヤーさんに女性の匂いがする。お前ら二人で相手を割って来い」と命じられ、磯子プリンスホテルのマッチ一箱を手がかりとして渡された話を暴露しておきました。 サンスポ編集局長秘書をしていた洋子夫人を割り出したのは雪山ですが、毎日のように日報を持って編集局に姿を見せていたので、灯台下暗しで遅れをとりました。ご本人は照れくさそうな表情をされていました。

会場で馬見塚さんから今日は1週間ほど前亡くなった「ヒゲの殿下」の話をしてくれと命じられました。札幌オリンピックの取材要員だったので開催1年前から札幌に出張していたのですが、 当時の藤村邦苗報道部長に「お相手をして来い」といわれ毎夜ススキノを2人で飲み歩いた話をしたのですが、マミさんが触れて欲しかったのだろうに言い忘れたことを、今頃気づいたので 書いておきます。

会田管理部長の席にあった五輪取材予算をみたら400万円を超えていました。長堀敏夫、石川荘太郎入れて夕刊フジ取材班3人で割ったら一人130万円以上使える計算です。これは使い切れんぞ、と札幌に着くなり三越で上から下まであるロングコートに防寒靴 などおそろい一式を購入しました。他社からはうらやましがられましたが大目玉を食いました。これは東西の産経本紙、サンスポ、大阪新聞全部あわせた予算だったのです。当時は夕刊フジの大ヒットでうなるほどの収入があり、産経全部の五輪取材班 の経費を負担していたのでした。このしゃれた防寒コートは五輪終了後発生したあさま山荘事件の現場で大いに役立ちました。夕刊フジの黄金時代のエピソードです。


山路洋子様
挨拶する山路洋子さん
松村幸夫氏
あと2,3回は会いましょうと松村幸夫さん
最後に山路洋子夫人が、家族も知らないエピソードを聞かせ てもらって ありがとうございましたと挨拶され、ついで中締めで松村幸夫氏が「みんな加齢で会の存続がしんどくなったので・・・」と言いましたが、なに、老骨にムチ打ってもらえばあと2,3回はおれんじ会は開催できるというニュアンスでした。 会の名称はなんとでもつきます。みなさん元気なうちにまたお会いしましょう。

【追記】
今回の写真は萩原正人元写真部員がすぐさま翌日送ってきてくれたものを使わせてもらいました。見たところ現役諸氏、「昔若手」のスナップがあまりありません。会場では カメラマン諸氏が撮影されていたようなので、送っていただければたちどころに掲載しますのでよろしくお願いします。




川島吉雄さん
「オメエ」口調健在の川島吉雄元写真部長
古賀和夫さん
古賀和夫さんは四国から

【出席者】

会田茂、縣忠明、阿部耕三、安藤徹、生原伸久、石川荘太郎、榎本正男、大見信昭、大森浩、大山宰冶、小笠原満、加藤雅己、川島吉雄、菅野和明、菊池克之、黒田基男、久保田るり子 、古賀和夫 、小林誠、佐伯浩明、酒井聖爾、嵯峨厚生、佐々木浩二、佐藤将臣、佐藤実、志波吉勝、島谷泰彦 、下條勝也、清水孝夫、清野邦彦 、田中規雄 、千野境子、土屋達彦 、 角山修司 、勅使川原豊、鳥居洋介、中西幸一 、長堀敏夫 、生井昇、西出義宗、野呂瀬務、萩原正人 、平野光男 、別府育郎、宝田耕介、盆子原和哉 、松村幸夫、馬見塚達雄、 三保谷浩輝、宮崎健、三好英輔、村井禮仁、矢村隆男 、井上朝文


参会者3
54人ものOBが集まりました
参会者4
(左から)別府、佐藤、矢村の各氏




山口昌子さんの新刊2冊

山口昌子さんが21年間の産経新聞パリ支局長生活を終えて退社したことはOB諸氏もご承知でしょうが、紙面では”元支局長”の肩書でフランス大統領選の行方など相変わらず健 筆をふるっています。2012年4月23日、その昌子さんからメールが来ました。「パリはこのところ、真冬の寒さがぶり返し、私もこの春はずーと体調を崩して赤血球や血小板が急 低下し、輸血や点滴のために入院しました。東京でのすみかもどうやら、目処が立ち、10月に帰国します。最近2冊本を出しましたので夕刊フジの皆様にご紹介ください」とのこ とでした。

実は山口さんは昨年の暮れに一時帰国しました。押し詰まった12月27日ということもあり、急遽連絡がついた馬見塚達雄、島谷泰彦、萩原正人、宮崎健の5人でプレスセンターで会 いました。そのときの写真が萩原氏から届いていたのですがちょうどそのころ宮崎のパソコンがダウン、買い替えなどに手間取りOBのページへ掲載のタイミングを失しました。

なぜフランスはその著作ですが 、1冊は4月20日発売された『なぜフランスは一目置かれるのか  プライド国家の流儀』(産経新聞出版 定価1680円)です。平成19年以降に産経で連載された 大型コラム「パリの屋根の下で」「緯度経度」などから120編を厳選したもので、「フランスは何故原発に拘るのか」「何故デモを愛するのか」「何故ユーロを守るのか」など数 々の「何故」でフランスの政治、外交、軍事、文化…をいろいろな角度から切ったものです。



原発大国もう1冊は『原発大国フラ ンスからの警告』(ワニブックスPLUS新書、定価 882円)です。「原発は環境ではなく、エネルギー、つまり国の独立の問題だ」とフランス人は言そうで す。フランスの原子力による電力への依存は、フィンランドと並んで77%。「再生可能エネルギー」などとあやふやなものにすがる日本をよそに、がんとした理念を持って推し 進める原発大国の「なぜ」を「仏メディアはフクシマをどう報じたか」「フランスはなぜ原発大国になったのか」など6章で分析しています。





金田浩一呂氏 逝く

夕刊フジ訃報
夕刊フジ掲載の訃報。

夕刊フジ・産経新聞ばかりでなくマスコミの文壇関係の名物記者、金田浩一呂氏が亡くなった。金やんがながくつきあった夕刊フジの2011年7月23日付けの紙 面を左に掲載したが阿川弘之氏のコメントも寂しそうだ。

それにしても5月山路さん、6月細野、7月「かねやん」と夕刊フジ名士の鬼籍入りがつづく。実は2月にメールをもらい「がんとつきあいながらそこはかとなく 生きている」とあった。金やんらしい従容とした雰囲気で私もそうありたいと思わせられた。入院していて娘さん2人が世話をしていると 聞いていたものの 、メールも手紙も通じず病院が分からないまま、先を急ぐ人が続き後回しにしているうちに訃報がやってきた。見舞いの借りもあったのに義理を果たさぬま まに彼岸に行ってしまった。

金やんのことは「抱腹絶倒記者」として自分のホームページに駄文を書いた。金やんのはちゃめちゃぶりを書け、といったのは細野憲昭である。有楽町の外 国特派員クラブで開かれたコンサートで一緒になったときのことだ。確かにこんな人間めったにいるものではない、と思い出しつつ書き出したが、次から次 とネタが出てきて長くなった。

インベーダーゲームが一世を風靡したときである。このはしかのようなものを夕刊フジに持ち込んだのはマスコミ初の女性の文化部長、宮部(青山)タキ女 史と小田孝治である。この手ほどきで誘い込まれた編集局の記者が次々と熱中した。大手町から日本橋、神田周辺のゲーム機を求めてさ迷い歩き、昼休みが 3時間以上になるほどトチ狂った。

そのとき目の色変えて「全インベーダー撃滅。第2ステージ突入」とやっていたのが、およそこういうものとは無縁と思われた細野、金やん、そして付き合い のいい宮崎で、このサボり連中はブームが去った後そのまま「バックギャモン」になだれ込み、帰りが深夜に及ぶこともあった。

細野の手紙に「楽しかった。なにしろ給料もらいながら遊んでいたのだから」とあったがその通りである。 名前を挙げた順番に鬼籍に入り、残っているのは私ぐらいである。これはもう逃れられない順番だと納得している。

先週、芥川・直木賞の発表があった。今回を除いてほぼすべての選考会場に金田浩一呂の姿があった。今では産経抄のコラムを書いている田中規雄論説委員が あるとき覗いたら新喜楽の床の間の柱にもたれて居眠る金やんに司会者が「金田さん質問はありませんか」と必死に声をかけていたという。

金やんが居なくなったら、芥川・直木賞なんてもうどうでもよくなった。

(宮崎 健)


「かねやん」を送る言葉集。

「こよなくなつかしい人を喪って、こよなく淋しい」(阿川弘之)

「本当に長い間お世話になりありがとうございました。私も年をとり伺えないこと、お許しください」(遠藤順子=遠藤周作氏夫人)


曽野綾子
阿川家を代表して阿川佐和子さん、曽野綾子さんの追悼文が寄せられた。8月5日夕刊フジ クリックで拡大

ことし1月7日に、金田さん、荻野さん、わたしの三人が平塚で会食したのが最後になりました。そのときはまだ元気で、引越しの話なんかも出てましたね。 3月初めに私がウィーンに戻ってからは、メールでも連絡が取れなくなっていました。入院されていたんでしょうか。ご冥福を祈るばかりです。(岡芳輝)

「高杉良さん、佐高信さんとの出会いのきっかけを作ってくれたかねやんありがとう。安らかに。(島谷泰彦=夕刊フジ元経済部長。現役時代、金田さんの アドバイスや推薦で、まだ新進だったお二人を抜擢して連載に踏み切り、夕刊フジの紙価を高めた)

「天国の山路さんへ電話の金田さん「モシモシ金田ですが、どちらさんですか?」「バ、バカヤロウ!早く天国に来い!」と山路さん。夕刊フジの“ゴッド フアーザー”で癇癪持ち天下一品だった山路元社長と春風駘蕩のかねやん。まったく対照的な個性が編集局を緊張させたり、和ませたりしました。その山路 さんもこの五月、一足先に天国入りです(元整理部長、佐藤実)

「私は金田さんを宇宙人と称していた。書評の出稿がいつもギリギリで遅く、私は整理部員を代表したつもりでいつもケンカ役だった。いまとなっては飄々 とした人間性が懐かしい」(元整理部員、川上浩一郎)

「三田文学にお願いした原稿について「書けない、ごめん」と電話をいただいたのが最後になりました。金田さんは私にとってもっとも印象深い方でした」 (三田文学 加藤宗哉)

「あの雰囲気を持った人はフジテレビにはいません。新聞は偉大です」(フジテレビ専務取締役太田英昭=草創期の夕刊フジにフジテレビから出向して金田 さんの薫陶を受けた)


宇宙棋院の方たちからのメッセージ

「君が現れるとそこにいた皆は思わず微笑した。そちらに行った時もそうなんだろうね」(峯島正行)

「天国では遠藤周作先生や谷田さん、藤田さんが待っていますね。あちらで一杯やりながら囲碁を楽しんでください。いろいろな思い出をありがとうござ ました」(高木香織)

「宇宙を越えてしまった金田さんと今度は「天国棋院」で碁を打つ日を楽しみにしています。安らかに(高田幸子)

「宇宙棋院のときに遠藤先生からお聞きした数々のユニークな金田さんのエピソードが懐かしく思い出されます{黒田尚子}

(ほかにも、宮野麻紀さん、石光佐千子さん、岸佳子さんらから送る言葉が届いています。金やん、宇宙棋院ではとりわけ女性に人気があったようです。また、あれで(失礼) グルメでもありました。中丸美恵絵=よしえ=さんによると「安いもの専門」今時流行のB級グルメを先取りしていたのです。)


「神田の三州屋でよく昼食を食べましたね。時にはお昼から日本酒も」(夕刊フジの後輩、小泉良夫)

 

「神田藪そば、神田まつや、人形町芳味亭などの老舗でよく昼食をほ一緒させてもらいました。いい思い出です(後輩の鶴谷和章)

「貴兄が教えてくれた「食べ歩き」の楽しみ、いろんなところでずいぶんと役に立ちました。ありがとうございました」(清水孝夫=かねやんの あとを継いだ元夕刊フジ文化部長)

「ゲラを配りに行った私に机の引き出しを指さして一言「食べますか?」桃屋のラッキョウの瓶詰が蓋をあけていました。(芝沼隆一)

「夜、酒を飲むからといって昼食を抜くのはよくないと、なんども忠告したのに…」(高山正之=当時の報道部記者、現評論家)

「40年ほど前、宮崎にプロ野球巨人軍キャンプの取材で出張するとき、かねやんがボソボソっと「妹が市内で喫茶店をやっている」と言ったので、3、4 回ほどお邪魔した。かねやんによく似た30代のすらっとした美人でじつに心やさしく、コーヒーの香りも味もすばらしかった。いい思い出です」(安藤徹元写真部員)


金田さんとの午後       作家 蓮見圭一(夕刊フジ時代の大門宏樹)

金田さんは7,8年前、横浜南区の婦人会館で文章教室の講師をしていた。私も横浜住まいであるとき横浜駅でばったり会い、二人とも昼ごろに都内へ出勤し ていたので、それからも何度か電車でご一緒することがあった。そのたびに「グリーン車でメシを食いながら行こう」と豪儀なことをおっしゃる。「崎陽軒 はまずいが浜御膳というのだけはうまい」というので、ずいぶん探して食べた。夕刊フジ時代に、神田の藪そばで五段重ねというのを好んで食べていたとか で、食にはこだわりがあったようだ。

 

その後私が勤めを辞めたこともあって、しばらく会わなかったが、癌を手術したという話を聞き、昨年の5月、退院してまた文章教室の先生をしていた戸塚の カルチャーセンターに会いに行った。案内を乞うと、レインコートを着た長身の老人が出てきた。髪が真っ白になっていたが、飄々とした雰囲気は変わって いなかった。

「おお、きみか。何をしている」 約束したのにいきなりこれだ。
昼食時だったが、病気明けなのに「タバコが吸いたい」というのでそんな店をずいぶん探し、仕込みをしていたカラオケスナックに入って、飲み食いしな がら話し込んだ。癌が転移していると聞いて暗澹たる気持ちになったが、ご本人は気にするふうでもなく、「一人暮らしを楽しんでいるよ」と言っていた。 「『恐妻家日記』という本を出したら家を追い出されてしまってな。まさか女房が読むとは思わなかったよ」とも言った。相変わらずどこまで本気で言って いるかわからない。

やがて小説の話になった。金田さんは一編だけ小説を書いたことがある。「三田文学に『温泉芸者桃子』というのを書いた。一応『雪国』の駒子をイメージし たんだが、待てよ、桃江だったかな。どっちにしても昔飼っていた犬の名前だ」

こんな調子だから話は尽きない。硬派の社会派記者を目指していたという産経新聞甲府支局時代の仕事ぶりなど初めて聞くエピソードもあり、店を代えて夕 方まで話し込んだ。

金田さんと話していて20代だった夕刊フジでの日々を思い出した。あのころ、会社というのは楽しいところだと思っていた。何しろ、金田さんのような 人が部長をしていたのだ。失敗もしたし金もなかった。辛いことも多かったけど、僕たちはそれさえも楽しんでいた。しかし今はどうなんだろう、帰りの電 車でそんなことを思った。

とにかく、いつまでも消えない印象を残すひとだった。何年か前に流行った「千の風になって」吹きわたっているような気がしてならない。


私は金田さんに、お行儀作法を教えていただきました

20代後半の私は金田さんの元で文芸記者見習い修行の日々を送りました。思い出すと楽しかったことばかりです。最初に担当した五味康祐さんは大音響の クラシックをバックに自宅玄関に着物を翻して現れ、忍者のようでした。林真理子さんや村松友視さんらのエッセイの原稿取りにお宅に伺い、何を話してい いかわからず、目が★マークになりました。

一番楽しかったのは遠藤周作さんの狐狸庵対談をセットする役目で、お茶のつぎ方からお客さまへの配慮まで、 金田さんと遠藤先生の座談とはこういうもの…というお話を聞きながら、私はお行儀、お作法を覚えました。まったく気の利かない無調法の私を、おおらか に見守ってくれたのが金田さんでした。「贅沢な日々を本当にありがとうございました」という思いでいっぱいです。昨年、千野境子先輩と田中則雄さんと お見舞いに行って、大磯まで皆で散歩したのが最後となりました。お見舞いしたいと思っていた矢先の訃報です。心から、ご冥福をお祈りしています。

 久保田るり子




「カネやんを偲んで『天国』に送る会」開かる

その金やん、さっさと密葬をすませるよう遺言したとかで誰もが遅れをとった。そりゃなかろうがと有志が音頭をとって2011年8月26日(金)午後6時 から東京・大手町産経会館・サンケイプラザで「カネやんを偲んで『天国』に送る会」が開かれた。

偲ぶ会
当日の模様を伝える8月27日夕刊フジ クリックで拡大
阿川弘之氏が代表発起人だが、高齢となにごとも億劫ということで、娘のエッセイストで座談の名手、阿川佐和子さんが代理出席。金やんが産経で己の秘書と して使うつもりで就職を持ちかけたが弘之氏が「お前に取られるから嫌だ」とはねつけた。そのほか「宇宙棋院」で永遠のライバル、作家、黒井千次氏、評論家活動のスタートが 金やんのあっせんだった辛口評論でなる佐高信氏、作家・エッセイスト中丸美絵さん、町田で一緒につるんでいた高山鉄男慶大名誉教授、宇宙棋院仲間の歴史作家、高橋ちはや氏や 産経新聞から熊坂隆光、住田良能の新旧社長が出席した。

折から雷鳴とどろき、丸の内線が豪雨で止まるという天変地異。己の所業が暴露されるのを金やんが怒っているかのような予兆だったが、はたして驚天動地のスピーチが 飛び出した。やっぱり彼は只者ではなかったのだ。

衝撃のスピーチは親交深かった遠藤周作の長男、フジテレビ常務、遠藤龍之介氏の口から飛び出した。フィアンセとともに父の仕事場を訪れたらいきなり「龍之介君は 婚前交渉は済んでいるんですか?」と聞かれたという。彼女は真っ赤になるし父親は「親の私でも聞かないことを・・」と怒り出すしという修羅場にも金やんは恬淡として恥じなかったという。 いやはや金やんについては、大概のことには驚かない会場の人たちも唖然呆然だった。

黒井千次氏の話では金やんは余命何ケ月かの宣告を受けるや直ちに身の回りの整理を始めた。周囲に知らせる必要はない、密葬ですませろ、遺骨は散骨せよと娘さんに伝え机や文書も 整理した。ところが余命宣告の時期が過ぎても「そこはかとなく」(本人からのメール)生き続けた。食べようにも書こうにも回りに必要な品がない。 これには金やんも困ったらしい。

それにしても遠藤龍之介氏のスピーチには驚いた。よくもまあ聞けたもんだ。やっぱり金やんは宇宙人だったのだ。この日のタイトルは「カネやんを偲んで『天国』に送る会」とある。 参会者はだれもしっかり数えていないが数十人から百人近くだった。集まった人たちは天国に行けるにしても、送られる金やんは宇宙人である。はたして宇宙人に天国はあるのだろうか、心配だ。



阿川佐和子
阿川佐和子さんのスピーチ
ゆかりの作家
黒井千次、阿川佐和子、遠藤龍之介の各氏(左から)


細野くんを悼む     馬見塚達雄

細野憲昭
細野憲昭くん
(2009年11月7日横浜での「おれんじ会」で)

夕刊フジ草創期から報道部、運動部で健筆をふるい、陽気でおしゃべりがなにより大好きだった細野憲昭くんが19日(日)昼前、入院先の千葉県旭市の病院で心不全のため亡くなりました。67歳。 通夜は25日(土)午後5時から、告別式は26日(日)午後1時から。旭市新町625の葬祭場「アイホール」(電話0479−62−0355)で。喪主は長姉の細野恵子さん。

数年前に産経を定年退職後、亡母の住んでいた旭市の実家に引きこもって、好きなビールと読書三昧の悠々自適のリタイア生活でしたが、2,3年前に前立腺癌を発症して放射線治療を。 前にもこの欄で紹介したように、今年3月には旭市も震災、津波の被害を受けて細野家も危ないところ。さらに4月には突然、大動脈弁脈症という心臓病 襲われて救急車を呼んでの緊急入院、一旦は回復して退院しましたが、5月中旬に再発して再度救急入院、その後、病院で心臓と前立腺のダブる治 療を受けていました。

ただ、このことは身内(といっても生涯独身ゆえ、3人の姉とその家族)しか知らなかったのですが、5月下旬の山路さんの通夜、告別式に顔を見せず 、電話連絡もないので、あの律儀な男にしてはおかしい、「よもや」と思い、旭市の大病院に電話して入院がわかったので、6月初旬に見舞ってきました。 その時の印象は体型こそあの小太りだった細野くんとは思えないほどスリム化していましたが、お喋りの方は健在で、ベッドの上に座って2時間あまり話し 込むうちに、血色もよくなり元気になったような気がしたものです。

そのあと、彼が親しかった何人かに電話やメールをして、元気づけの手紙を出してく れないかと依頼、それに応じてくれた何人かには返事もきたようで、こう急に亡くなるとは、僕もその人たちも、まったくの「想定外」でした。 お姉さんに電話して様子を聞いたところ、、亡くなる前、何人かから手紙が来たことを、ことのほか喜んでいたそうです。心から冥福を祈ります。合掌。

(2011/06/21(Tue) 09:17 掲示板No.741への投稿をこちらに移設しました。)

◆ ◆ ◆

おーい細野、昼酒やってるかい
細野手紙1
細野の絶筆となった手紙1
画像クリックで大きなサイズに

山路さんから1ヶ月もたってないのにお前さんかい。マミさんは「くん」づけしているが一度も敬称で呼んだことがないのでこっちでいくが、東日本大震災で細野の すぐ近くまで津波が来たが本人はなんとか無事で、昼酒かっ食らっていると云うので祝着至極と思っていたが、山路さんの時姿が見えないので、どうしたんだとOBの 間で話題になった。

一番心配したのが、今では夕刊フジOBの(冠婚はないので)葬祭担当として奔走する馬見塚さんで、横浜が一段落したらすぐ片道3時間かけて飛んでいってくれた。 そっちから何も連絡ないので元社会部記者らしく「旭市で大きな病院」というところから片っ端から電話して割り出した。

今では「旭市」なんて大層出世した地名だが昔はこれを酒の肴にして何時間でもしゃべったものだ。なにせ「千葉県旭イの181」で手紙が着く。なにか略したわけでなくこの住所 がすべてだという。いまでこそ市になり枝番号がつくが「お前さんのところは徳川時代の検地のままなんだ」と以後、名前は省略して「旭イの181」と呼んでいた

細野手紙2
細野の絶筆となった手紙2
それはともかく見舞ったマミさんを前に2時間しゃべり続けたという。だから手紙には「元気に入院してるようでよかった」と書いた。万年筆を持つのは大儀のようだ、と聞いたから 「お前さんの金釘流なんぞ見たくないから返事はいらない」とも書いた。そうしたら1週間とたたないうちに返信が来た。驚いた。ますます「元気で入院」だと思った。そうしたら 、追っかけて訃報がもたらされた。

細野は山路さんがよく言った「一芸運動」にうなづくところがあって岡記者の「軍事」、小田記者の「歌舞伎」にならって「大衆芸能」を”専攻”した。私も講談と落語は わりに聞いたほうで「愛宕山馬術の誉れ」の一席から、曲垣平九郎が駆け上った愛宕神社の男坂の階段は何段か知ってるか、と聞いたら鼻を蠢かしながら「86段」と言った。大したもんだった。

下町の文人が集まった浅草のお好み焼き屋「染太郎」に一緒に出入りし、今では永井荷風の作、と断定されている「四畳半襖の下張り」裁判では被告、野坂昭如の肩を持ち、 まもなく発禁処分になるというので「面白半分」を手に入れるべく走り回った。いまなら、ネットで簡単に手に入るのだが、細野は親分と慕った原口順安センセイを見習ったのか、そっちのほうに はまるで無知。すっとアナログ人間だった。メールで簡単に連絡が取れる人が多い中で最後まで手紙しか通じず、前世紀の遺物を通してくれた。

細野手紙3
細野の絶筆となった手紙3
何人かに書いた手紙が絶筆となった。私が受け取ったのは亡くなる1週間前の消印。信書の秘密もあろうが、彼の夕刊フジに寄せる思いも分かるので紹介することにする。 彼も許してくれるだろう。
家内のことから書き出しているので聞いたら、日吉の寮に旭からお母さんが通ってきていたそうだ。病弱で買い物もままならぬというので家内が手料理を重箱にして運んでいたのを、 細野がありがたがってくれていたようだという。

こっちからの手紙には「お前さんは昼過ぎから飲み始めるそうだが、生意気だ。先輩のオレですら飲み始めは午後4時からだ」と書いたが、返信に酒の話は ない。病院で酒断ちしていたせいかもしれない。そっちで好きなだけ飲んでいいよ。


(4つ先輩の  宮崎健)




山路さんとともに夕刊フジの終焉

産経記事
産経新聞掲載の訃報

山路さんが83歳で新聞人としての人生にピリオドを打ちました。永田照海、山路昭平という類まれな個性に率いられて夕刊フジはスタートしました。驚異的な 部数を達成、鎌倉の文化人から文章教室の教材に選ばれたり、「ぴいぷる」や写真が本になったこともあります。スクープは数知れずです。近年、ネット社 会という構造変革の前に読者層に断層が生じ、往時の勢いに翳りが見えてきました。山路さんが逝った今、夕刊フジの時代が終わったという思いです。

ご存知の通り癇癪もちでしたが、山路さんらしい最後でした。3か月前に自宅で転倒して肋骨骨折、入院後今度はベッドから転落(本人がチューブを引き抜い て暴れたのが原因)肋骨7本を折ったうえ肺出血を起こし一時は危篤状態に陥りました。

その後、意識不明のまま入院、治療を続けていましたが、ゴールデンウイークにはもしやということも考えられる状態で、夕刊フジOBは馬見塚さんを連絡役 にして見舞いも控えて待機していました。

18日ようやく退院、自宅治療を続けることになりました。「退院」と言う言葉で周りも安堵、よかったとハガキをよこした人もいました。本人も返事を書 くといって万年筆を持ってこさせたものの筆を走らせる力はありませんでした。

この万年筆は創刊25周年のパーティーの折OB会からプレゼントしたウ ォーターマンです。もっとも、パーカーに変わっているかもしれません。ああいう人なので、銀座・伊東屋の売り場には話をつけ、メーカーはもちろんペン先も好み のものに取り替えられるようにしておきました。「翌日、ご本人がおいでになりました」と売り場から連絡がありました。ほめ言葉を口にする性格ではない ので、こういう形でしか反応を知ることはできませんが、いたく気に入ってもらえたようで、ずっとこれで、届いた書状には即返事を書いていました。それも、 鳩居堂に特注のこだわりの便箋と封筒で、前文なしいきなり本文の例の調子です。

自宅に戻ったもののまだ意識はさだかではなく、会話や意思疎通などもほとんどできず、食事も以前から本人が「拒食症」状態なので家族(おもに夫人)が「胃 ロウ」という方法で管で胃に直接栄養分を注入するという手のかかる自宅治療法を続けました。亡くなる直前、ふたたび容態が悪化、救急車が呼ばれました が例によって、大丈夫だから帰れ、と本人は救急隊員に命令する始末。

自宅前で救急車に乗せるまで1時間以上かかるという騒ぎを演じた(夫人の話)挙句、無理やり運ばれたもののやはり持ちませんでした。肺気腫などの既往 症があり、死亡診断書には表記の病名のほかたくさんの病名が並んでいました。枕頭で「おっさん、これは自損行為でっせ」と言いましたが、いつものよう に青シャツ専科のダンディーな寝顔でした。

自宅に戻ったとき、夫人が「家に戻れてよかったですね。頑張りましたね」と言ったら、「お前も頑張ったな」とねぎらいの 言葉を口にしたそうです。一方的に怒鳴りまくり、はた迷惑 な印象を持つ人もいるでしょうが、シャイな性格の持ち主でした。うらはらな表現しかできませんが、「お前もな」というひとことに万感の思いを振り絞った のだと思います。さすがに洋子夫人は感じ取り「はじめて聞いたやさしい言葉」とうれしそうにかみしめていました。

◆ ◆ ◆

葬儀も山路さんらしいものでした。親子三代新聞記者は有名ですが、初代・愛山はクリスチャンだったそうで葬儀はキリスト教でした。葬儀中、牧師が 「金次郎さん(愛山の長男)がしっかりしないと・・」と語った言葉に怒った次男の久三郎(2代目・新聞記者)が、「バカヤロー!この葬儀止めろ!」と ぶち壊して以降、やむなく山路の家は耶蘇と縁を切り(切られた?)、久三郎からは無宗教という、「癇癪もち三代」の素行の結果だといいます(弟の山路洋平さ んのメールから)。

大阪梅田・桜橋の産経新聞大阪本社2階に編集局がありました。山路昭平・社会部長がいる同じフロアに大阪新聞があり、そこで久三郎氏は社長とか役員 とかを長くつとめ、よく息子のいる社会部長席に姿を見せました。怒られる心配のない 下っ端は平気でしたが、デスク以上の連中はたちまち緊張したものです。「親子2代に怒鳴られた」というのがぞろぞろいました。

関東は通夜の客が多く、関西は告別式の客が多いのですがその通りでした。通夜では馬見塚さんが親子三代新聞記者や比類なき癇癪もちだった山路家の家系 やエピソードを交えて紹介、この会場にも怒鳴られた人が多いことでしょう、と言いました。なに、正確に言えば、ほめられた人など皆無で会場には「被害者 」しかいなかったはずです。

山路さん
青い花、オレンジの社旗に包まれた山路さんの葬儀。

弔辞は整理部長として大阪からずっと一緒の松村幸夫さんと経済部長だった島谷泰彦さんが捧げました。松村さんは愛山ゆかりの地、信州・長野で開かれた 新聞大会に一緒に出席したとき作家の井出孫六が講師として「郷土の信濃毎日新聞は二人の偉人によって100年以上の歴史を築きあげました。一人は山路 愛山、もう一人は小林一茶の発掘で信毎の紙価を高めた束松露香(つかまつ・ろこう)です。その二人の長男、久三郎氏と次女、菊枝さんが結婚して生まれ たジャーナリスト三代目がこの会場のどこかに・・・」と話はじめたとたん、横でもじもじはじめた山路さんの姿を紹介しました。

島谷さんは当時4歳の長女が交通事故に遭い重篤状態になったとき、傍に付き添い奇跡は起こる、という話をはじめた山路さんの意外な側面を伝えました。 奇跡は起こりました。洗面所での立ち話ではそのお嬢さんは国際結婚していま44歳。孫は容姿から「クレオパトラ」といわれているそうです。

写真上は式場の祭壇の様子です。時節柄青いアジサイに見えるでしょうが、白いカーネーションに青い色を吸い上げさせるという最新技術で作り出されたも のです。ブルーのシャツしか着なかった山路さんのために家族の強いこだわりで実現しました。棺は夕刊フジの社旗で覆われました。これはOBのたっての願 いからです。亡くなった日に枕頭に集まった何人かで山路さん愛飲の焼酎(その名も「久三郎」)を一本空けてしまいました。そのとき、我々にとってはいつまでたっても山路さん は夕刊フジが別会社だったときの「山路社長」のままだというのでこれで送りたいということになりました。

山路さんのパネル
式場にはなつかしいスナップがパネルで展示された。
音楽は大阪で脚本家・放送作家として活躍している弟の山路洋平さんの「父親、久三郎と同じ音楽で」とのこだわりでベートーヴェンの交響曲 『英 雄』 の第2楽章からの葬送行進曲がエンドレスで流されました。家族の願いで式場の脇にはオリエント急行に夫妻で乗ったときのタキシード姿の山路さんや 、一番気に入っていた夕刊フジ25周年で挨拶する姿(写真下)、夕刊フジおれんじ会の面々との集合写真などが産経写真報道室のおかげでパネルになり、 参列者に披露されました。

告別式は関西からの人を多く見受けました。前夜のカミナリについで大阪社会部長時代のカミナリの思い出が積み重なりました。以前の山路家の葬儀で司馬 遼太郎からの弔電が間に合わず、こんなものだろうと大胆にも”代筆”した当時の大阪産経の文化部長、端山文昭さん。この日は司馬遼財団から、「山路さんこそ本物の新聞記者だと つねづね言っておりました」と本物の弔電が届いていました。「また東京は三浦(ロス疑惑)でっか。大阪はこういうはっきりせんもんはあきまへんのや。 こっちは山口組と一和会のドンパチでいきまっさ」と言ってのけた当時の大阪夕刊フジの編集責任者だった辻本幸夫さん。大阪でのヤーさんはもっと怖かったという点で一致していました。

夕刊フジおれんじ会から
夕刊フジOBのおれんじ会からも献花しました
葬儀委員長の清原武彦・産経新聞会長、宮内正喜・岡山放送社長、山路さんが大阪社会部長のときデスクだった沢明義・元産経大阪代表が弔辞を捧げました。 それぞれ知られざる一面を伝えて味のある内容でした。だれもいない岡山放送の資料室で一人篭って調べものをしていた姿が紹介されました。骨上げを待 つ控え室で同席した当時の秘書で今も東京支社にいて山路宅を往復している山崎能婦子さんに聞くと「私が見たことです。その後もあんなに資料をよく読む社 長には会いません」と内幕を話してくれました。

告別式で「ジイジ!」と呼びかけて感動を呼んだ孫の悠生君(はるき。小1)が骨上げを手伝いました。あの山路さんをして「目に入れても痛くない」可愛がり ようだったといいます。悠生くんは以前、「ジイジ」に「僕は大きくなったら新聞記者になる!」と告げて、「ジイジ」を泣くほど感激させたそうです。自 室の机ひきだしに孫が大すきなチョコレートを山ほど用意して、食事もできないほど次ぎから次へと食べさせ、家族は呆れかつ困ったといいます。 世間とまったく同じ好々爺ぶりでした。

朝(あした)には紅顔ありて夕べには白骨となる 。なんともいえない大きな寂寥感に包まれて横浜南部斎場を後にしました。

◆ ◆ ◆

この項を書き上げたら、萩原正人・元カメラマンから写真が届きました。遺影の輪郭も定かでない素人写真を前に途方にくれていたところでした。山路さんに からんで 人一倍てこずらせた男ですが、さすがです。きちんと会場の雰囲気を捉えていました。すべて彼の撮影です。

◇ ◇ ◇
山路さん
山路さんが気に入っていた1枚。夕刊フジ25周年パーティーで。

【追想の記】

山路さんとの出会いは地方勤務を終えて堺支局に上がってきたときです。この支局は社会部扱いで夜勤も大阪本社でし、翌日堺支局に社のクルマで出勤する というところで相棒は同期の雪山(当時は利井)隆弘です。そこの社会部長が山路さんでした。「おっさんがどもりはじめたら逃げろ」と教えられました。 「ど、ど、ど‥・」とはじまると「どアホ」か「どついたろか」と来るのですが、雪山は2つめの「ど」くらいで「ほな、ちょっと行ってきまっさ」とトンズ ラし、結語の部分まで逃げ損なっているのが私でした。

雪山は上司も「おっさん」呼ばわりする異能の男で、編集局長は永田照海、般若の照です。面相も恐ろしいし言動も怖いのですが、自宅は堺支局管内でした。 堺支局に2人でいた夜遅く電話が入りました。編集局長からで「えらいこっちゃ、火事や、煙突の上から炎がメラメラと上がっとる・・・」。堺は石油コン ビナートがあります。私の前任地は四日市なのでピンときました。石油コンビナートで排ガスを24時間燃やしている風景がつき物です。第一消防には何 の速報も入っていません。

雪山の応対がはすごい。「おっさん、堺に何年住んでまんねん。いまごろ気いついたんでんか。あれはフレアスタッグいいましてな、四六時中燃えてまん ねん」。編集局長が「そうか」とすごすご退散する始末です。社会部長も「おっさん」呼ばわりで、私も真似するようになりましたが、雪山のようには板に つきません。

この2人、編集局長と社会部長が夕刊フジ創刊を任されたのです。「夕刊フジの挑戦」(馬見塚達雄著)によると東京組はあやしげな試みを敬遠したから、 というのですが、下っ端はそんな事情分かりません。釜が崎担当で天王寺動物園内にある記者クラブで寝っころがっているとき笹井武久デスクに呼ばれ「ち ょっと2年ほどお江戸に行ってんか」と言われてもうかれこれ40年以上です。大阪社会部から中川朗、原口順安、雪山隆弘、宮崎健、管内の中部総局から 岡芳輝、小泉良夫、みな事情は同じでしょう。

後年、酔っ払うと「お前に目つけたのは堺で書いた原稿や」と言われました。堺の記者クラブで郊外の小学校の新築の体育館か何かの見学に行ったとき、校 内の池で女の先生が「池のコイに石を投げつけて殺すこどもがいるんです。ここは農家の子と団地の子が半々のとこですが、普段魚とりしてる農家の子はやら ないのですが、団地の子は魚は痛くないんやいいましてな。焼き魚しか見てないせいでしょうかね」と嘆いていました。

書く気はなかったのですが、社会部にもどるとめぼしいニュースがない。中川デスクが「なんか町ダネないか」と言ってるのでこの話をしたら「おもろい。 書け」となったのです。当時は教育関係のコメントは3人の女性と指定されていました。俵萌子、司馬遼太郎夫人、吉田時雄経済部長夫人、いずれも 産経で社内結婚したOGです。誰がなんとコメントしたか忘れましたが13版から社会面トップになりました。

ところが15版最終版でなにか発生ものがあって、私の「特ダネ」ははずされました。翌日これに怒ったのが山路さんです。中川デスクをつかまえて「お前 は記事の軽重がわからんのか。東京を見ろ。藤村邦苗(デスク)は最終版までこれで通してるじゃないか」とえらい剣幕です。山路さんはその時のことを言 ってるのでした。

山路さんは当時独身でした。東京に行くことになった雪山と2人呼ばれ笹井武久デスクから特命を受けました。「どうもヤーさんに女のにおいがする。相手 を割ってこい」。手がかりは社会部長席に残された磯子プリンスホテルのマッチ一箱です。

広い東京でマッチの箱一つでわかるもんか、たかをくくってほっといたのですが、雪山が割り出してきました。日吉の寮で隣同士、帰りのタクシーのなかで 「だいたい間違いないな」とまでいうのですが名前を言いません。そのころ銀座のチボリで同期の若手で飲み会を開きました。山口昌子、石川荘太郎、雪山、宮崎 、洋子(旧姓を忘れました)夫人、もうひとり誰かいました。調子に乗った私と荘太郎が「山路のバカが」というと、雪山がテーブルの下からコンコンと靴 で蹴るのです。「痛いなお前」と蹴られた2人は最後まで気づきませんでした。

その磯子プリンスホテルでの結婚式には割り出した有能な社会部員はじめ誰一人招かれませんでした。当たり前です。何を言い出すやら分からない連中を招 く愚をおかすわけがありません。ですが夫人側の招待客から衝撃のスピーチが飛び出しました。「ボク死んじゃう」とプロポーズしたというのです。

後年、飲みに連れて行かれました。たいてい売れないどっかの劇団の女優が口をしのぐためにやっているバーで、弟の洋平氏が言うように「本人はホントは 芝居をやりたかった」のでしょう。機嫌のいいとき呑み屋でこの時受けた衝撃を話し始めるとたちまち機嫌が悪くなりました。夫人相手の一世一代の大芝居だったので しょう。

機嫌を壊したときの秘策が「親子3代新聞記者」を持ち出すことでした。渋谷の東急ハンズの横の坂道に「山路愛山旧居跡」という名所札が立ってます。誰で も知ってますが、「こないだ渋谷のNHKのところを歩いていたら・・・」とやるとたちまち話に乗ってきます。単純なものです。

山路さんが結婚してすぐ秋川渓谷でバーベキュー大会を開きました。東西の寄せ集め部隊なので家族連れで懇親をはかる必要があってのことですが、ご夫婦で参加 しました。ハイキング程度なのですがこの夫婦には経験がなかったと見えて前日に本社の地下のスポーツ店で大きなリュックサックを買い込みました。あの山路さんが リュックを背負っているだけでもマンガですが、この日は国鉄ストでした。昼からしか動かないことを承知で青梅の駅に立っていたのですが、例によって山路さんの カミナリが爆発しました。「お前ら、すぐ動かせ!」。困惑した動労の組合員を前に大音声が響きました。その山路さんの背中には場違いなほど大きなリュック。 長堀敏夫カメラマンや酒井聖爾整理部長が今でも語り草にしている、理不尽な山路カミナリの一件です。

誰もが山路カミナリの経験者ですが例外があります。女性です。女性には滅法やさしく怒鳴られた人など皆無でしょう。夕刊フジ育ちに限っても山口昌子パリ 支局長、千野境子産経特別記者、久保田るり子政治部編集委員・・・みなやさしい山路さんとして心酔者ばかりです。

今回、家内が涙ながらに山路さんからの手紙を持ってきました。大事に保管していたそうで、亭主は山路さんから手紙をもらっていた事も知りませんでした。 趣味の陶芸の作品展をひらいたとき夫妻で来場いただいた御礼の片隅に当時引っ越した練馬の地が肌に合わないと書いたそうです。

「関西弁でいう”宿替え”はむつかしいものです。ここ金沢文庫は家内の実家の近所で、力関係の逆転の結果です。大阪・豊中から亡母を引き取ったときの第一 声は、『空気が違う』でした。当時幼稚園だった坊主は『パパ、ボク たち友だちを作るのがタイヘンなんだ』と云い、ともにギクリとしたものでした。夕刊フジでともに苦労した細谷洋一が昨年12月18日肺がんで入院。食欲なく つらいお見舞いでした。雪山といい、梶浦幹生といい、若い友人が先立つことは悲しいことです。”元気なのは主人と犬”に大笑いしました。健ダンナを大切 にしてください」

そのダンナが頂いた手紙には「(入社時と今の顔写真つきで定年者紹介の)社内報で健さん拝見。ご苦労さまでしたというより、報ゆること少なき社であ りました、と謝るほうが正しいでしょう」とありました。はじめての温情ある言葉で感激しました。なのに、昨年暮れの夕刊フジOBのおれんじ会の時です。 遅れてきた山路さん夫妻に「ここの席が空いてますよ」と声をかけたら「うっせい。余計なことを仕切りやがって」。これです。

現代経営学の父と呼ばれたドラッカーが云ってることですが「うまくいっている組織には、人付き合いが悪く気難しいわがままなボスが必ずいる。彼は一流の 仕事を部下に要求し、自らにも要求する。何が正しいかだけを考え、誰が正しいかを考えない。こうしたボスこそが必要だ」。まさに時代の要請だったのでしょう。

私事ですが、創刊直前のダミー版を作っている頃、今も名前を見る女優の堕胎事件の取材を担当しました。社会部記者としてハナから取材拒否することは出 来ませんので相手まで割り出し、カルテの写真もいつでも手に入るようにし、原稿も書き「このゴシップを載せるような新聞なら会社を辞める」といったら、 原稿を読み、その場でゴミ箱に放り込んでくれたのが山路さんでした。私が最後まで新聞記者としての人生をまっとうできたのは、山路昭平という理不尽で はあるが一本筋が通った編集者のおかげだと思っています。

「ど、ど、ど・・・」   どアホですか、どつくですか、ど下手ですか。笹井さんも、中川さんも、尾登さんも、雪山も先に逝ってますから彼岸でやりあ って下さいな。こっちはおかげで寂しくなりました。

(宮崎 健)
私事をたくさん書いたので署名を入れさせていただきました。


小田孝治氏死去

産経記事
産経新聞掲載の訃報
夕刊フジ創刊直後に「一番の若手」として報道部にやってきた小田孝治さんが2010年12月14日亡くなりました。昨年秋、脳腫瘍を発症して自宅で倒れ、入院、手術、リハビリを経て一時は快方に向かう かに思えたのですが、残念です。

小田孝治氏
小田孝治さん
(2008.5.24 第3回おれんじ会)
夕刊フジは産経新聞の東西の俊英が集まってスタートしましたが、軌道に乗るまで編集局の人員はほとんど出入りがありませんでした。やっと独自に採用するようになってその「当時の若手」が現在、 中心になって産経と夕刊フジを支えているのはご承知の通りです。このためその独自採用組との間に年齢的にも空洞がありました。その隙間を埋めるべく活躍したのが小田孝治氏です。

小田記者が取材で知り合ったPR会社の女性と結婚して新婚旅行中、ちょうど雫石上空で全日空機と自衛隊機が空中衝突する大事故が発生しました。三陸海岸 あたりの小島にいたのですが、電話を入れてきて、「近いので今から 現場に行きましょうか」と言ってくれました。当時は交通事情が悪く雫石に記者とカメラマンが着くまで時間がかかりました。デスク以下渡りに船とばかりに 現場行きを頼みました。この間、夫人とは別れて本隊が来るまで雑感記事を現場から送ってきてくれました。夫人とは2日ほどあとに盛岡で合流したそうです(葬儀 で夫人が喪主挨拶のなかで「心細くて、新聞記者と結婚するとはこういうことかと思いました」と当時の思い出を述べておられました)。

山路昭平御大の「一芸運動」で、記者は何か一生かけた専門分野を持て、と指導されました。岡芳輝記者の「軍事」や小田孝治記者の「歌舞伎」はその成果です が、小田”歌舞伎記者”は役者や松竹に食い込み、パンフレットに解説を書くほどでした。今、海老蔵騒ぎの最中ですが、誰しも小田記者の一喝を聞きたかったと 思うことでしょう。

小田葬儀
小田君の葬儀でお悔やみの言葉を述べる馬見塚さん

葬儀は12月19日午前10時から横浜北部斎場で行われました。無宗教で、通夜なし葬儀のみ。先輩1人と産経・夕刊フジを代表して馬見塚さんがお悔やみの言葉 を述べたあと全員で菊の花の小枝を献花するという形で行われました。祭壇には歌舞伎界の東西の大御所ほぼすべてと言った人たちからと、どこでの関係がわかりま せんが小泉純一郎元首相などの花輪が並び、故人の交際範囲の広さを物語っていました。

山路御大、住田社長ら産経と夕刊フジの現役・OBの顔をたくさん見かけ、中には新聞社時代以来初めて会う人も多く、小田君のおかげでさながら新旧の交流会とい ったおもむきがありました。二人の子息も立派に成人され、元気にはしゃぐお孫さんも数人見かけました。子息の一人は鹿児島の南日本新聞の記者と聞きます。 親父の背中を見て新聞記者の道を歩まれたのでしょう。長寿社会の今では69歳はやや心残りではありますが、幸せな小田君の人生だったと確信した一日でした。

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葬儀の前後、交流のあった方々から思い出の記が寄せられましたので、以下に紹介します。

◆ ◆ ◆

当時の「若手」で産経抄を書いている田中規雄論説委員に電話したところ「小田さんのためなら何なりと」と快諾してくれました。


小田さんへ

 小田さんのお見舞いに、千野さんと永井という小田さんが高く評価していた、現在雑誌正論の編集部にいる女性記者と、病院にうかがったのは、去年の11月のな かばでした。そのとき小田さんは手術の直後で、会話ができない状態でした。それでも、われわれのことは認識してくれて、強い力で手を握りしめてくれたもので す。奥様との会話も筆談でした。そのとき、どうしてもこの字が読めないのです、といって奥様から示されたメモを見て、「これ、海老蔵と書いてあるんじゃない ですか」と言ったのは、歌舞伎通でもある永井でした。ちょうど、その日は市川海老蔵の婚約記者会見が行われていました。テレビ中継を見た小田さんは、何か祝 福の言葉をかけたかったのかもしれません。その海老蔵の暴行事件が、連日世間を騒がしているのは、皆さんご存じの通りです。事件についてコラムを書きながら 、小田さんの感想を聞いてみたいな、と思っていた矢先、思いがけない知らせを受け取りました。

 小田さんとの出会いは、25年以上前の昔に遡ります。私は夕刊フジの報道部から、企画部への異動を命じられ、新しい職場の先輩が、小田さんでした。報道部 では、事件取材から芸能人のインタビューまで、それなりに充実した生活でした。企画部の仕事は、同じ記者の仕事とはいえ、広告記事の制作です。楽しそうに飛 び回っている同期入社の仲間たちの姿を見るに付け、味わった挫折感は、今の言葉でいえば、「負け組」の気分といっていいでしょう。そんなふてくされたように 私を、小田さんはいやな顔ひとつ見せず、接してくれました。毎日昼ご飯に誘ってくれて、本や芝居の話をたくさんしてくれました。小田さんは、企画部の仕事を てきぱきとこなすと、そのころ本業だった、歌舞伎をはじめ、演劇界のために走り回っていました。市川団十郎、玉三郎といった、劇界を代表する役者たちの友人 というより、相談役を務めていることも、まもなく知りました。小田さんの仕事ぶりを見ていると、ふてくされている自分がひどくこっけいに思えてきました。記 者にとって、どこに所属しているかなんてどうでもいいことだ。仕事は自分で見つけてくるものだ。小田さんは説教ひとつすることなく、この世界で生きていく上 で一番大事なことを教えてくれたのです。

 私どもの結婚の媒酌人も、小田さんご夫妻にお願いしました。結婚式での小田さんのあいさつは前代未聞のものでした。主役のはずの私を徹底的にこき下ろすの です。それも、慌て者とか、おちょここいとか、そんな生やさしい悪口ではないんです。自分のことしか考えてないとか、わがままとか、冷たいとか、まあ、当 たっているんですがほとんど人格否定です。そんな奴ですが、結婚できたのは皆様のおかげ、これからよろしく、という趣旨でした。こんなこと言ってくれる人 は小田さんしかいない。私にとって、唯一無比の人でした。

 

 小田さんの人脈のすごさはみなさんもよくご存じでしょう。さきほどのべた歌舞伎の名優から、小泉純一郎元首相まで、まさしく綺羅、星のごとくです。こんなこ ともありました。昨年、「おくり人」という映画が、大きな話題となりましたね。同時に、納棺夫という仕事を世間に紹介した原作本も注目されました。著者がど れほどユニークな人物なのか、小田さんから聞かされたのは、10年以上前のことです。小田さんのネットワークはここ数年、歌舞伎の枠をこえ、木工の名工、森 を守る人たち、岐阜県加子母村の住民とますます広がりを見せていました。執筆中の本も私が知っているだけで、2冊ほどあります。病気が邪魔をしなかったら、 生涯一記者の小田さんの集大成をまもなく目にすることができたはずです。 

 今年の4月ごろでしたか、自宅にお電話を差し上げると、奥様から退院されたとうかがい、おじゃましましたね。奥様が車いすの下敷きになり、2人で身動きで きなくなって、近所の友人夫妻に救出されたエピソードには、大笑いしました。小田さんは助け出されたとき、「あんこう鍋が食べたい」とつぶやいたとか。友 人夫妻は早速、魚市場に急行してくれたそうです。小田さんの応援団の一人から入院中、スナップ写真に一言を添えた写真絵手紙とも呼ぶべきはがきが毎日届いて いました。それを貼り付けたアルバムを見せていただき、つくづく友達に恵まれた人生はうらやましいと思ったものでした。もう大丈夫と安心したものだから、あ れからご機嫌伺うこともありませんでした。あれほど受けた恩の何百分の一も返すことができないうちに、小田さんは逝ってしまわれた。今はただ呆然とするばか りです。

2010年12月17日   田中規雄

                                                                        

◆ ◆ ◆

小田君からは一回り上の先輩記者にあたり、上司でもあった馬見塚達雄氏も一文を寄せてくれました。病気を知ったいきさつは本文にもありますが、今回訃報を知って かけつけ、納棺も手伝い葬儀の段取りもつけ、当日は霊前で弔辞も述べることになりましたが、時間が限られていて言い尽くせないので、このサイトで追悼文をささげることにしたものです。

無念!生き急ぎすぎた小田くん

 昨年秋、小田くんが自宅で脳腫瘍を発症して倒れ、救急車で緊急入院、手術と知ったのは、11月7日に横浜で開く夕刊フジOBの懇親会(おれんじ有志会)への 出欠を確認するため自宅へ電話したところ、典子夫人から「実は…」と聞かされた時だった。まさに青天の霹靂、日ごろ健康そのものでアウトドア志向。いつ電話 やメールをしても、大袈裟にいえば一年のうち半分近くはやれ屋久島だ、やれ飛騨の山中だ、あるときはヒマラヤのトレッキングに出かけているといった具合で返事 が2,3週後になることはザラ、国内外を飛び回っていた彼が、こともあろうにあの年でダウンとは…。

 それでも、今年の春に退院、自宅療養、リハビリに入ったころは、ずいぶん快方に向かい、僕も電話で短い話をしたことがあった。夫人の話では歌舞伎座にも車 椅子で出かけて何人かの役者に会い、熱心に観劇して、メモなどをとっていたという。しかし、夏ごろから再び病状が悪化、ついに帰らぬ人となった。生前のあの 人なつっこい笑顔、時に真剣なまなざし、世相を憂う口吻などを思い出すたびに、無念でならない。ただ今からふりかえると、新聞記者時代はもとより、新聞社を卒 業してからも、小田くんは何事にもあまりに真摯に、真正面から向き合い、「現場主義」「対人重視」で生き急いだ感がしてならない。親しかった後輩の某君などは 時々、「小田さん、そんなに方々、年中出かけるのはセーブして、たまにはノンビリしたらどうですか」と冷やかし半分に忠告していたそうだ。

 その行動力から付き合いが広く、人脈も驚くほど豊富だから、彼の人柄や最近のエピソードなどは、夕刊フジと産経文化部時代に仕事上で、OBになってから 「おれんじ会」の幹事としての接触が主だった僕などより、よほど親しくして詳しい方も多いと思われるが、ここには2004年に出版した拙著『夕刊フジの挑戦』 で小田くんのことをとりあげたくだりを紹介して追悼に変えたい。

歌舞伎にのめりこんだ小田  
≪純情な若手もいた。「ぴいぷる展」(注・創刊2年目の1970年に銀座・三越で開いた夕刊フジ主催の写真・インタビュー展)のパンフレットにこんなエピソ  ードが書かれている。

 男なのか女なのか―丸山(現・美輪)明宏さんを取材したのは夕刊フジ編集部のなかでも最年少、独身のX君でした。一度会い、二度会い…でもどうしても書け ません。丸山さんの忙しいスケジュールの合間をぬって、深夜三度目のインタビュー。「あなたがつかめないので」と詫びながら、取材しました。分かれ際に丸山 さん、妖しくほほえんで、「あなたってホントに純情なのね」。明け方までかかって「ひと・ぴいぷる」を書き上げたX君、その夜から高熱を発して寝込みました。

 この「X君」とは小田孝冶である。後年、産経新聞に移ってから歌舞伎では屈指の専門記者になり、定年後には大学講師として若者に伝統芸能を教える「先生」に なった小田だが、当時はまだ神戸支局からあがってきたばかりで、先輩たちからは「小田坊」とよばれていた。のちには若手歌舞伎役者の相談相手になったり、イ ンタビューの受け応えがなっていない役者に心得を説教するようになった小田に、こんな純情な時期があったとは信じられない思いである。(中略)  

 歌舞伎にのめりこむようになったのは、1972年2月、二代目尾上松緑のぴいぷる取材がきっかけだったと本人が回顧している。味わいつくせないほど濃かっ た本筋の芸談のあと、煙管、煙草盆、手ぬぐい、火鉢など大事にしている小道具を取り出して、その一つ一つの手技を、若い新聞記者相手に熱心にしてくれる歌 舞伎界の大御所に、小田はすっかり参ってしまったのだった。

 「とおりいっぺんのインタビューではなく、歌舞伎の奥深さをしろうとのぼくにもわかってもらおうとしたんですね。このあとすぐ、松緑さんは人間国宝になっ たので、なおのこと強い印象が残った」と小田。それからは時間があるたびに歌舞伎座に足を運ぶようになって、ついに専門記者の道にはいった≫(『夕刊フジ の挑戦』148〜149ページ

2010年12月18日  馬見塚達雄


◆ ◆ ◆

葬儀の直後、「夕刊フジOBのページ」の掲示板に、教えていた大学の小田ゼミの学生氏から思い出の投稿がありました。こちらのコーナーにふさわしいので 転載して紹介します。

先生の告別式を終えて…

こんにちは。私は、西武文理大学4期生の佐野隆雄と申します。学生時代は、小田孝治先生のゼミを専攻し生き方、価値観、そして人とのふれあいを多くを学び私 の心の師でした。

そんな先生の訃報を伺ったのは先週の水曜日のことです。正直、信じられませんでした。あんだけ元気で、やさしくて、僕より握力が強くて、持病をもってるの に温泉に浸かって笑っていられる。そんな強い人がなぜ??と疑ってしまいました。

私が、最後に先生のお元気な姿を拝見したのは4年前の加子母村での事です。その時は、急に休みが取れたので先生に「加子母村に行く」とは告げず行きました。 いざ着いてみると、どこに行っていいかわからない。右も左もわからない。そこで、先生に電話をかけました。朝、八時過ぎだったと思います。

「先生、今加子母村に居るんですがどこに行けばいいでしょうか??」
「佐野君かい?いま加子母村にいるのか?どこにいる?」
「今は加子母村の道の駅にいます。」
「よし、わかった。いまからそっちに行くよ。」
「え?」

そこで電話が切れてしまったのです。
「そっちにいくよ」っと言われても、まさか横浜から来るわけがないとおもっていたら50M先から先生の姿が近づいてくるんです。

その時の先生は、太陽の光をいっぱい浴び、着ているTシャツは汗でびしょびしょ。朝8時ですよ。ジョギングしてきたのかと思いました。

「佐野君久しぶり。加子母の山はいいね。朝一で山に入っていたんだ」
「先生、凄いですよ。まさか加子母村で再会できるなんて」
「そうだね。まぁそんな事よりこの辺りで美味しいコーヒーが飲める所は知らないか??」
先生らしいです。

そんな先生と今日でお別れ。
本当に悲しいです。
また、加子母村でお会いしたような再会を夢見てこれからの人生歩んで参ります。

本当にお疲れ様でした。
安らかにお眠り下さい。
西武文理大学4期生 小田ゼミ 佐野隆雄

◆ ◆ ◆

山口昌子パリ支局長からは、葬儀のあった夜届きました。
「小田さんの訃報、ショックでした。ご病気だったことも全然知らなかったので。野津さんから知らせがあり、外信部に頼んで弔電を打たせていただきました。 夕刊フジサイトにも思い出を書かせていただこうとしたのですが、なぜか、文字化けしてしまいますので、ここに書かせていただきます。」

2001年9月に思いもかけずに、フランスから勲章を頂いたとき、当時のグールドモンターニュ駐日大使が非常に喜んでくださり、東京のフランス大使館で叙勲式 と約60人ほど招待してレセプションを開いてくださいました。そのお礼に歌舞伎座に招待しようと急に思い付いたのですが、急遽帰国したこともあり、もう良い 席がありませんでした。

それで、小田さんにお願いして切符を取っていただきました。小田さんも一緒に来てくださり、大使夫妻、そして小田さんと私の4人で幕間にお昼も食べました。大 使は語学の天才で、着任して2年ぐらいでしたが、日本語の会話に不自由しなかったので、小田さんに歌舞伎のことを熱心に質問していました。小田さんの明快で 詳細な説明に非常に感激していました。また、小田さんが楽屋も案内してくださり、当時の辰之助のメーキャップを見学することもできました。

大使は現在、駐英大使を務めていますが、8月末の慣例の大使会議のエリゼ宮のレセプションでお目にかかると、歌舞伎の思い出をいつも、楽しそうに話します。

そのずっと前に奥様とパリにも来てくださり、良き夫ぶりも見せ付けてくださいました。パリ・オペラ座での歌舞伎座公演の時には、「行きたい」とおっしゃって いたので、再会を楽しみにしていたのですが。帰国したら大好きな歌舞伎をまた小田さんと一緒に観劇するのを楽しみにしていたので本当に残念です。実は恥も外 聞もなく海老蔵のファンクラブに入ろうと思っているのですが、真面目な小田さんは眉を顰めて反対するかもしれませんね。

改めて感謝を込めてご冥福をお祈りします。

山口 昌子


「おれんじ気まま会」2010年10月23日開催

毎年恒例の「おれんじ会」、今回は「おれんじ気まま会」と題して2010年10月23日(土)午後3時から横浜駅西口の居酒屋「鳥良」で開かれました。会場定から案内、出欠まで馬見塚”ひとり幹事”の骨折りでした。

集まったのは山路昭平御大以下、榎本正男、大見信昭、大山宰治、今田禎嘉、嵯峨厚生、伊藤元彦、野呂瀬務、田代実、佐藤実、志波吉勝、松村幸夫、馬見塚達雄、 西出義宗、小笠原満、三好英輔、風間正人、阿部耕三、小泉良夫、加藤雅已、会田茂、萩原正人、宮崎健の23人。

いつもながら抜群の出席率を誇る競馬班の今田氏から翌日に迫った菊花賞の予想。軸馬のナントカから3頭を流し買いという「大穴」の教授をうけたあと、馬見塚”幹事長” からいつも姿を見せる原口氏が体調不良、細野氏が姉の介護、酒井氏が会合の重複、島谷氏が歩行困難などにより欠席という報告のあと、阿部耕三氏が「定年を迎え 、嘱託として運動部にいる」旨の近況報告。早この世代も定年かと時の過ぎ行く早さに驚いたあと、夕刊フジで最初に独自採用した「夕刊フジプロパー」組で現在は産経の横浜総局長 をしている風間正人氏が挨拶しました。

この世代は別府育郎論説委員、勅使川原豊文化部長、産経抄を担当する田中規雄論説委員など本紙を支える顔ぶれがいて夕刊フジが「人材供給源」になっていることを証明しています。 創刊当初から人を育てることに力を入れてきた成果がいま華開いている感じです。

翌日萩原カメラマンから届いた写真などで当日の光景を紹介します。

競馬班 営業 山路さんほか
競馬班の皆さん 営業と整理部のOB 山路さんほか

会田さん 宮崎 競馬班
小泉、加藤、会田、萩原の各氏 加藤、西出、宮崎、会田の各氏 競馬班

実さん 営業 山路さん
佐藤、志波、阿部の各氏 松村、野呂瀬、田代の各氏 山路さんと小泉氏

おれんじきまま会2010「人間 井深大」
おれんじ気まま会
撮影者の三好さんほか2,3人ぬけているものの居酒屋のビル前の西口前でほぼ全員 の集合写真。
(後列左から)馬見塚、嵯峨、伊藤、 山路、阿部、小泉、今田、田代、志波、加藤、榎本、小笠原、会田
(前左から)野呂瀬、大山、西出、萩原、宮崎、佐藤実、風間(敬称略)

山口昌子さんの新著「ドゴールのいるフランス」(2010.6.9)

山口昌子産経新聞パリ支局長が表記のような新著を出版しました。「出版元はあまり宣伝をしないところな上、日本の本屋では歴史書として奥深く陳列されている だけでこのままでは本屋がすぐ返品してしまうのではないかと心配です。夕刊フジの皆様にもよろしく紹介してください」ということです。宮崎の個人ブログ「Mt.8.Blog」 で紹介した文章ですが、こちらにも転載します。

◇ ◇ ◇

「ドゴールのいるフランス」(山口昌子著)  2010/06/09 水曜日 - 11:42:13 by みやざき

暗愚の宰相でも国は滅びないが、国家観がないリーダーは国を滅ぼす。そこで「戦後最低の首相を持った日本の不幸」を4回にわたってこのブログで書いた 。家内は鳩山夫人とは神戸の女学校の同級生で政界に出る前から旧知の間柄なので、批判は書きにくかったが、最終回の4回目をアップした翌日鳩山内閣は 崩壊した。

どうして日本は国家観も軍事の知識もないリーダーを持ってしまったのかと考えていたところに、8日夕に山口昌子産経パリ支局長から電話をもらった。山口 さんは新聞記者時代の同僚であり、2010年フランス国家功労賞オフィシエ章の叙勲の写真をこのブログでも掲載したばかりだ。

「ドゴールのいるフランス」
「ドゴールのいるフランス」
電話の内容は「ドゴールのいるフランス」(河出書房新社、定価1,995円)を出版したという知らせだった。副題は「危機の時代のリーダーの条件」だという 。まさに時宜を得た打って付けのタイトルだが、鳩山以前に筆をとったもので、「日本のおかしな平和主義のためにドゴールは軍人、イコール悪人という間 違った印象が流布されていますが、本当に立派な指導者で、フランスを2度も救っています。世界的に指導者がいない今、特に、日本の読者に読んでもらい たいと思って書いたものです。私のフランスへのラブレターであると同時に日本への憂国の書でもあります。出版元はあまり新聞広告もしないし、本屋さん では、歴史書として店の隅に1冊ぐらいしか置いていないそうです。5月20日発売ですが、売れないと本屋はすぐに出版社に送り返してしまうので、ます ます日の目をみるチャンスがなくなります。それで、とにかく、ブログなどで紹介してほしい」ということだった。

「フランスにはドゴールがいるから羨ましい」といった米人記者の言葉が表題の由来のようだが、フランスには、政治家の基準というか指導者のお手本とし て、厳然としてドゴール将軍が常に、いる。

山口昌子さんによると今週号の週刊誌「ル・ポワン」はドゴール将軍が表紙だ。第二次大戦中の1940年6月18日にドゴールが亡命先のロンドンのB BCスタジオから対独レジスタンスの「呼びかけ」の放送を行ってから今年で70周年だからだ。サルコジ大統領は当日、ロンドンに行って70周年記念式 典に参加するそうだ。いまだに国民の敬愛を集めている。

ドゴール将軍の「呼びかけ」がなかったら、フランスは戦勝國にならなかったし、従って、戦勝4カ国を基準に構成した国連5常任理事国にもならなかった 。アルジェリア戦争が内戦にならなかったのもドゴール将軍が再登場した結果だ。つまり、ドゴール将軍は2度、フランスを救った文字通り、救国の士なわ けで、いまやフランスでは左右の党派を超えて、最も尊敬されている政治家だ。

ドゴールはまた巨額の出費を伴う超音速旅客機コンコルドの開発の強力な推進者でもあった。最先端技術の裾野の広さが国力につながることを知っていたか らだ。10年前シャルル・ドゴール空港に墜落したことや経済性から消えたが技術は残った。それに引き換え日本はどうか。アラブ首長国連邦の新しい原 子力発電所の建設の権利を韓国が大統領自らの売りこみで獲得したが、その間日本の首相は「民間まかせ」と手をこまねいていただけだ。日本もドゴー ルのいるフランスがうらやましい。


「人間 井深大」(島谷泰彦著)が17年ぶりに文庫版で登場(2010.3.19)

夕刊フジOBの島谷泰彦さんが17年前に著した「人間 井深大」(講談社)は、SONY創業者の足跡を追ったものとしては評伝の決定版といわれる本ですが、この ほど17年ぶりに文庫版として登場しました。

「人間 井深大」
文庫版になった「人間 井深大」
もともとこの本が世に出るについては夕刊フジの人間模様と深く関係しています。出版は日本工業新聞復刊35周年記念の特別プロジェクトとして企画されました。 当時の日本工業新聞社長は細谷洋一さん。ご存知のように島谷さんが夕刊フジ経済部長のときの編集局長です。

初版のあとがきに島谷さんが書いていますが、依頼されたとき「書くのはあなたしかいません」と言われたそうです。このひとことが体を熱くさせました。島谷さん の手紙には「17年前の作品が文庫になるというのも、現在の不況の時代、先達に学ぼうという時代の流れのおかげでしょうか」とあります。

文庫版の「解説」には無類の読書家と知られるタレント、司会者として活躍する児玉清さんが「著者の徹底した取材力で井深さんの素敵な人品骨柄が圧倒的なリアリ ティーで読者の心に諄々としてしみこんでくる」と書いています。「人間 井深大」(講談社文庫、本体695円)。


山口昌子さんにフランス勲章(2010.1.31)

新聞界からあまりいい話は聞こえてこないなか、山口昌子パリ支局長が仏政府から勲章を贈られたという”いいニュース”です。、 1月29日の産経新聞に次のような記事が掲載されました。

本社パリ支局長にオフィシエ章 邦人ジャーナリスト初

昌子さん受勲
昌子さんにオフィシエ章
フランス政府は27日、国家に著しく貢献した者に与える国家功労勲章のオフィシエ章を、産経新聞パリ支局の山口昌子支局長に授与した。日本人ジャーナリストで同勲章のオフィシエ章を叙勲されるのは初めて。1990年支局長として渡仏。以来約20年にわたり、ミッテラン、シラク、サルコジ各大統領時代のフランスを取材し、日仏の相互理解に果たした役割が認められた

同省のベルナール・バルロ報道官はさまざまな分野の報道で「日本人読者のフランスへの理解を深めるのに尽くした」ことを授与理由に挙げた。式にはロス、エヌキン両元駐日大使はじめめモイジ仏国際関係研究所特別顧問、ヴァイスパリ政治学院教授、フォール元パリ警視庁長官、山本忠通ユネスコ日本政府代表部大使、中川正輝パリ日本文化館館長、日仏の記者ら多数が出席した。

山口記者は1994年度ボーン・上田記念国際記者賞、2001?年仏国家功労勲章「シュバリエ」(5級)を受賞。著書に「シャネルの真実」「大国フランスの不思議」「エリゼ宮物語」「フランスよ、どこへ行く」など。

多くの夕刊フジOBがリタイアしている中で、昌子さんだけは「余人をもって替えがたい」と支局長生活20年。その前の支局員時代や、夕刊フジ報道部から仏政府の奨学生として留学していた時代を含めると人生の大半をパリに暮らしていることになります。たびたび一時帰国の歓迎会も開かれましたがいつも夕刊フジに育てられたことを感謝し誇らしく語っていました。夕刊フジの華に乾杯。


昌子さん受勲
外務省での叙勲セレモニー

3月に入って、昌子さんとメールのやり取りをする機会があり、叙勲のセレモニーの写真が届きましたので紹介します。普段は公開していないそうですが豪華な 仏外務省の広間の様子が分かるので大きなサイズで見られるようにしました。(クリックで原寸1280ピクセルに)

昌子さんの夕刊フジ報道部時代のエピソードやサイトの管理人とのツーショットという特ダネ写真は下記のブログに掲載しました。
http://xsvx1006409.xsrv.jp/miyazaki/mt8/wp-trackback.php?p=732



おれんじ会有志集合(2009.11.7)

叶屋2009
野毛の「叶屋」に集まった面々。(クリックで大きなサイズに)

2009年は夕刊フジ創刊40周年の年ですが、諸般の事情によりパーティーなどはありませんでした。なんとなくしまりがないので、では、有志だけでも集まろうか 、と馬見塚さんの発案で、手ぢかに電話で連絡が付く仲間に声をかけ11月7日(土)午後3時、横浜・桜木町駅前の野毛仲通りにある「叶屋」という飲み屋で 「臨時おれんじ会分会」という形で12人が集まりました。

席上、昨年9月25日、「アオキュー」こと青木久さんが亡くなっていたことが最近社会部OB会から馬見塚さんに伝えられたとのこと。同期の福井惇さんが今年になって 知ったものの、そのうち偲ぶ会でも開くか、となんとなくのびのびになっていたのだとか。法務省に強く夕刊フジ編集局にあった、テレビまできちんと入るよう収納 設計された壁一面にわたる木製の本棚はアオキューさんの口利きでした。その他靴から石鹸まで刑務所製の製品にお世話になった 方も多いでしょうが、みんなアオキューさんの世話でCAPIC(矯正協会刑務作業協力事業部)から来たものです。釣りが趣味で三浦半島でボートを出してもら ったりした方も多いでしょう。

金田浩一呂氏は腎がんと闘病中(本人のメールでは「闘病などと勇ましいことはしません。共存中」とか)。小田孝治氏が最近、脳腫瘍の手術を受けて横浜の病院に入院中とかの報告が ありました。野毛なら一人で行ける、とやってきた御大、山路さんも座るのが苦手で椅子の用意がいるなどそれぞれの加齢ぶりでした。丸山さんは85歳になるというものの全員に 持参の千葉産のピーナッツをプレゼントして大変元気でした。原口順安センセイは千葉県・勝浦に居を移したそうです。酒井法子にならってシャブでもやるのかと聞いたら 「相変わらず腰は痛いがそのほかは元気」とのことです。旭市に隠遁している細野氏はすっかり太ったのに驚きましたが「あんたがひさしぶりなだけで、ここ何年変わっていない」そうです。 千葉県の3人の元気さが目立ちましたが、房総はきっと空気がいいのでしょう。

写真は居合わせた「カメラマン」という方にシャッターを押してもらった「叶屋」2Fのスナップ。(前列左から)松村幸夫、丸山正一、山路昭平、島谷康彦、細野憲昭、志波吉勝、 原口順安(後列左から)宮崎健、馬見塚達雄、小笠原満、酒井聖爾、本光繁幸 の各氏。

恒例、山路邸2009新春(2009.1.2)

明けましておめでとうございます
今年も新春二日山路邸にOBが集いました。以下は馬見塚さんの報告です。(マミさんからは翌日投稿がありましたが管理人不在でアップが遅れました)

口だけは達者です
正月2日、横浜の山路御大邸に、恒例のメンバーが集まって恒例のオダをあげました。最長老の丸さん、新聞に情熱いっぱいの島谷さん、「オレンジ色 の憎いやつ」のレイアウトを確立した松村さん、ヘンなことばかりやっていた気がする小生、それに今回は「産経志塾」の塾頭というスゴい肩書の千 野さんも飛び入り参加、山路さんの岡山放送時代の秘書だった山崎さん(現在は東京勤務)、山路夫妻という顔ぶれでした。昨年参加した別府君からは 前日に電話があり、「実家(たしか奄美大島?)の父が具合が悪いので帰郷していて今年は参加できません。皆さんによろしく」とのことでした。

ご承知の方も多いでしょうが、夕刊フジは目下大ピンチ、話は当然その話題になりましたが、逆襲のやり方はまだまだ残っている。「岡目八目」かもし れないが、現場を離れているOBだから見えることが多い。なぜその知恵を活用しないのかと、口だけは達者なわれら後期高齢者でありました。 今年は創刊40周年、一度死んだつもりで、再スタートも悪くないかもしれませんね。

長老
2009年正月の山路さんとOB
(クリックで大きなサイズに)

別府
椅子に座っている女性は岡山放送の山崎能婦子さん
(クリックで大きなサイズに)

叔母に引導を渡したのは(2008.6.12)

宮ケンです。意外な出会いを報告します。
九州・唐津出身の叔母が97歳で亡くなり品川で6月11、12日に通夜、告別式が行われました。叔母は宮崎家から嫁に行ったので、4代目の総領である 私が出席しました。一族の宗派は禅宗なので臨済宗妙心寺派の僧侶が読経、法話など一切を仕切りました。

ところがこの僧侶というのが変わっていて、「4月に脳梗塞で逝きかけたが戻ってきまして、これまで葬式5件こなしました。まだ少し後遺症が残っていて読経にお聴 き苦しいところがありますがお許しください」というあたりはいいとして、例の「喝!」というのが禅宗の特徴なのにこれがなく、鉦(かね)の中を指揮棒のような ので軽く打ち鳴らし、ジャズのドラムのようにビートを利かしながらお経を読むのです。

斎場で最後のお経を上げて遺族に見送られてタクシーに乗ろうとするところで声をかけました。「導師さんはもしかして夕刊フジにいませんでしたか」。びっくりして こちらの顔を見て「ヒエー、宮さん!最後の最後に声をかけるとは人が悪い」とさんざ握手攻めにしたあと、逃げるようにタクシーに飛び込みました。

そう夕刊フジで馬見塚キャップのもと、パチンコ必勝法を連載、「宮さんだけに絶対儲かる台を教えるから」と新宿に案内して、ボロ負けさせた、あの牛次郎センセイ だったのです。池袋のジャズ喫茶で彼が仲間と演奏している席に明け方までいたことがあり、読経しながら鉦の中をかき回しリズムを取る姿にピンときたのです。前 日の通夜でも似た人がいるものだと思ったけれど、彼は伊豆のほうにいると聞いていたので、品川にいるはずないと思い声をかけませんでした。

喪主が渡された名刺には「臨済宗妙心寺派願行寺、牛込覚心」とありました。夕刊フジのあと敵のゲンダイでマンガ「やる気まんまん」の原作者としてヒットさせ、 「包丁人味平」「釘師サブやん」の作者はいつしか伊東市・伊豆高原で寺を開き管長兼住職となっていたのです。

叔母が牛込住職からもらった戒名には「流石」「幸」などきれいな文字がちりばめられ、なかなかもらえないはずの「大姉」までサービスされていました。非の打ち 所のないお坊さんで叔母も極楽浄土に往生したことと思います。葬式のこととて誰一人としてお寺さんの写真を撮っておりませんでしたので、牛次郎氏の勇姿は残っ ておりませんです。喝!      (宮崎 健)



「第3回おれんじ会」に57人参加(2008.6.5)

「第3回おれんじ会」は2008年5月24日(土)午後2時から古巣の大手町サンケイプラザ304号で開かれました。
サンケイパーラーしか知らない人もはじめて姿を見せていただき、夕刊フジや産経にいる現役も参加して総員57人にもなりました。
紅一点、島村理麻さん(今は”敵陣”の講談社)や九州や高崎、栃木・小山の常連さんなど、過去3回で最大のデレゲーションで、会場あちこちで昔話に花が咲きました。
馬見塚会長代行(マミさんの音頭とりではじまったのですが、会長は山路さんだろうが、と いう声もあり、結局ワケわからなくなり、会長は後日決定予定)が、「午後5時までの3時間も場がもたないぞ」、と心配してビンゴなどを行いましたが、なくても大丈 夫なくらい盛り上がりました。 豪華景品を提供していただいたOBはじめ編集・営業の現役諸兄ありがとうございました。

下の集合写真にはシャッターを押した三好英輔氏の姿がありません。写真部からも懐かしい顔ぶれが集まりましたが、みな手ぶら。カメラマン根性は三好氏一人で守られました。 寄る年波でカメラが重くなったのでしょうか。後日の糾弾に任せたいと思います。

3回
第3回おれんじ会 集合写真
(クリックで大きなサイズに)


〔当日の出席者〕(敬称略)
 会田茂 青木政司 阿部耕三 伊藤元彦 榎本正男 大森浩 大山宰治 小笠原満 小田孝治 加藤雅己
  川合芳久 川島吉雄 菅野和明 北島俊一 黒田基男 小泉良夫 小林誠 佐伯浩明 酒井聖爾 嵯峨厚生
  佐々木浩二 佐藤将臣 佐藤実 志波吉勝 芝沼隆一 島村理麻 島谷泰彦 清水孝夫 下條勝也 鈴木隆敏
  田代実 田中健雄 田中規雄 土屋達彦 勅使川原 中西幸一 長堀敏夫 生井昇 難波博幸 西出義宗
  野呂瀬務 萩原正人 福武金二 別府育郎 細野憲昭 松村幸夫 馬見塚達雄 丸山正一 三保谷浩輝 宮崎健
  三好英輔 武藤真樹 村井禮仁 本光繁幸 柳原正志 山路昭平 矢村隆男

萩原正人氏 近況です(2008.5.15)

ご無沙汰していますが皆様お元気にお過ごしのことと思います。
連休、琵琶湖畔と、四万十川を源流から河口まで走ってきました。琵琶湖は新幹線・米原で下車、びわ湖畔を京都まで走りました。
1週間で総走行距離は500キロちかく、しかも18インチの小径車でさすがに疲れましたが、新緑と清流のコントラスト素晴らしかったです。 何点か写真を見てください。おれんじ会を楽しみにしています。(萩原 正人)

萩原正人氏と愛車



琵琶湖 四万十川
琵琶湖畔 四万十川の源流だそうです

感想:いまどき元気な奴、いや、お方もいるものです。いずれにせよ原口順安氏には想像を絶する話でしょうな(M)

恒例、2008年山路邸の新春

平成20年の正月2日午後、今年も横浜の山路邸に昔のメンバーが年賀に集まりました。最長老の丸山正一さんはじめ、馬見塚、島谷、松村、生原の諸氏と 遅くなってかけつけた別府育郎・現夕刊フジ編集局長の6人。山路さんは15日に検査入院を控えていましたが結構酒は飲んでいたそうです。

話題はもっぱらヒトのウワサ(おおむね悪口)と某新聞への批判。写真を見ても御大はじめ皆さん、体力の衰えを隠せませんが、あいかわらず口だけは達者 でこの場にいない連中もそうとうクサされたようです(推測)。

なお、掲示板にあるように大貫、井出両氏の訃報がこの場にもたらされました。せめて生きている連中だけでも「おれんじ会」をやろうということになり、 日時、場所は未定ですが、陽気のよい時期に、今回は都内にしようかというあたりまできまったようです。

長老
2008年正月の山路さんと長老
(クリックで大きなサイズに)

別府
別府育郎夕刊フジ編集局長が入っただけ
(クリックで大きなサイズに)



2007年追想録

平成19年(2007)はかつてない多くの夕刊フジの戦友が鬼籍に入りました。
松沢勲氏(3/3)
植木賢氏(3/30)
豊平三郎氏(5/12)
森博氏(9/20)
大貫昇氏(年末)
井出耕也氏(年末)
このほか把握できていない方もいるかもしれません。小さなタブロイド紙のためにともに精魂を傾けた方々のご冥福を祈ります。手元に写真がある方だけ 掲載しています。サイト上の「偲ぶ会」として原稿、写真の投稿も歓迎します。

植木賢
植木賢氏
森博
森博氏

大貫先輩のこと

亡くなった戦友への「偲ぶ会」をせめてこの欄でやりたいということなので、大貫昇先輩の思い出を。
在籍期間は創刊から短かったけど、実は大貫さんと僕は夕刊フジ創刊の半年以上も前に、東京社会部から二人だけ最初のダミー版を作るチームに参加さ せられた同志だったのです。

このダミー版は評判がいまいちで、大阪社会部長だった山路さんなどは「こんなもの作れるか!」と怒って机にたたきつけたそ う(拙著「夕刊フジの挑戦」に紹介)だし、東京の販売担当常務の某氏など「こんなタブロイドが売れたらオレは銀座を逆立ちして歩いてみせる」とホザ イタそうです。

まあ、創刊から売れまくったのは、山路さんら編集首脳陣のコンセプトがしっかりしていたことと、若手に優秀な書き手がそろっていたこ とで、ちょうど中二階あたりにいた僕らはずいぶん煽られました。その中二階のキャプテン格だったのが大貫先輩で、週刊サンケイで鍛えたセンスが光っ ていました。

後年、産経外信部を経て海外ミステリーの翻訳を手がけるなど意外な一面もみせ、南氷洋の巨大な氷山が太平洋に流れ出たというSF小説は ベストセラーにもなりました。もっとも、扶桑社の担当者にいわせると、「誤訳もけっこうあったけど原作より面白くなった」とか。これ夕刊フジ魂です か。合掌。
(馬見塚達雄 2008/01/09)



40周年で馬見塚さんインタビュー記事

夕刊フジはまもなく40周年を迎えます。これを機会に編集でも営業でも記念事業を企画しているようです。掲示板で馬見塚さんが予告していたように編集では その第一弾として夕刊フジ創刊の時に生まれた現役の夕刊フジ記者による創刊時メンバーのインタビューというのを11月5日掲載しました。馬見塚さんは当時34歳だったそうです。そういえば 私は何歳だったと数えるOBも多いことでしょう。ZAKZAKに掲載された記事を転載します。

40周年記念企画 (ここのクリックで紙面に飛びます)
紙面の「活字」が小さいので、見づらい方は、ブラウザ一番上にある「表示(V)」をクリックして「文字のサイズ」を最大にしてください。



「おれんじ会」箱根全舷のアルバム

予想外の多数の参加があった「第2回おれんじ会」の箱根全舷でした。総員30人!前日の役員人事で飛ばされた(?)ばかりの加藤雅巳氏、まだ健在の太田英昭氏、ご当地箱根彫刻の森美術館長だった鈴木隆敏氏はじめ遠く九州・佐賀から奥さんの披露を兼ねておいでになった村井禮仁氏など。

馬見塚さんが掲示板に「遠く九州・佐賀から村井禮仁ダンナが若くてきれいな奥方同伴のほか、群馬・高崎から大山宰治、栃木・小山から本光繁幸、千葉のはずれの旭から細野憲昭の諸氏、腰を痛めて歩行もままならぬ原口順安大兄まで出席してくれ、御大・山路昭平さんの欠席という一抹の寂しさを吹き飛ばす大盛り上がり」と書いておられるとおりです。

遠方の人ほど参加率がいいというのはどういうことでしょうか。きっと御大・山路昭平さんが欠席というのでみな伸び伸びとしたのではないかと思います。まだ写真が届くと思いますが、とりあえず馬見塚、萩原両氏から送られてきたものを掲載します。紙焼きしたい方はこのままのサイズでプリンターにかけてください。街のDPEでもやってくれます。

全員集合
箱根全舷全員集合(07年5月30日。馬見塚氏撮影)
(クリックで大きなサイズに)

二次会
二次会での集合写真(07年5月30日。萩原氏撮影)
(クリックで大きなサイズに)

原口
(左から)榎本、下條、小笠原、原口、志波の各氏の談笑。(西出氏撮影)
(クリックで大きなサイズに)

生原
相撲と野球で意気投合の大見、生原氏(西出氏撮影)
(クリックで大きなサイズに)

加藤
村井夫妻と宮崎、加藤の元デスクコンビ(西出氏撮影)
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長老
長老です。翌朝最後に出た者で美術館見学をしましたが、
雨にあい、喫茶室でまた昔話を。(07年5月31日。萩原氏撮影))
(クリックで大きなサイズに)

参加者氏名 会田茂、生原伸久、榎本正男、太田英昭、大山宰治、大見信昭、小笠原満、小田孝治、加藤雅己、金田浩一呂、小林誠、酒井聖爾、志波吉勝、下條勝也、鈴木隆敏、田代実、土屋達彦、西出義宗、野呂瀬務、萩原正人、原口順安、細野憲昭、松村幸夫、馬見塚達雄、丸山正一、宮崎健、三好英輔、村井禮仁、同夫人、本光繁幸(敬称略)、

第2回「おれんじ会」
    今年は箱根で「ゼンゲン(全舷)」!

夕刊フジの仲間の皆さん、お元気ですか? 昨年、有志で立ち上げた「おれんじ会」を今年(2007)も5月30日に下記の要領で開催します。昔懐かし い「ゼンゲン(全舷)」スタイルです。この時期の箱根は新緑が美しく、宿泊する「彫刻の森クラブ」の温泉は今はやりの「源泉掛け流し」です。きれい でゆったりしているので家族連れでの参加も大歓迎致します。
    日 時:2007年5月30日(水)  
        午後3時からチェックイン
        ※午後2時頃から世話人が待機してます。

        部屋割りは世話人にお任せあれ。希望あればどうぞ。

    場 所:箱根・彫刻の森クラブ&美術館
          (彫刻の森美術館の庭園内では飲食自由)

         夕食のあと別室で二次会兼パーティ
            (お好きな時間まで)
            31日午前10時にチェックアウト。
            このあと美術館見学(無料)など自由行動。


    会 費:13,000円
           (1泊2食、飲み放題の二次会、美術館入場料込み)


【交通の案内】
電車、クルマそれぞれの案内はここをクリックしてください。

電車はJR、小田急小田原→箱根湯本→箱根登山鉄道で彫刻の森駅から徒歩約3分。
クルマの方、クラブ前に無料で置けます。

[運賃の一例]
○東京から新幹線で小田原まで行き、箱根登山鉄道で「彫刻の森」まで。
4290円(運賃1450円、指定席2190円)。自由席だと510円安。所要時間1時間半。

○東京からJR東海道本線快速アクティー(熱海行)、新宿からJR湘南新宿ライン特別快速小田原行きなどを利用。小田原乗換え。
2100円(JR1450円、箱根登山鉄道650円)。所要時間2時間10分ほど。

○新宿から小田急特急「はこね」利用。箱根湯元乗り換え。
2370円(運賃1500円、指定席870円)。所要時間2時間24分。



日帰り希望者、翌日のゴルフ希望者、箱根観光めぐりのご要望があれば配慮しますから、返信ハガキにご記入を。
連絡先TEL
泉企画  (松村)03-3723-7964
彫刻の森クラブ(箱 根)0460−82−3993
彫刻の森美術館( 同 ) 0460-82-1161




今回は以下のOBが嫌々ながら(喜んで)世話人をしています。
小田 孝治  酒井 聖爾  志波 吉勝 島谷 泰彦  松村 幸夫
馬見塚 達雄  宮崎 健 

07年 正月の山路宅に集合

07年山路邸
07年の長老です(クリックで大きなサイズに)

2日、横浜の山路邸に例によってオールドOB?が年始に参上しました。 数年前の大手術以来、つねに体調が気になる山路さんですが、最近は調子がよいらしく、いたって元気です。 例によって最近の新聞に対する辛口評などなど。同感する一同で大盛り上がり。 昼間の訪問が夜にまでかかって、奥様にはまたご迷惑をかけてしまい、反省。

そこで出たのが「今年はおれんじ会、どうするの?」で、昨年の屋形船が好評だったので、 さて?とアタマをひねるところ。ぼくの思いつきで「箱根の彫刻の森ツアーなんぞは」 ということで、一応賛同は得ました。ぼくは何度か彫刻の森のPR紙をつくったこともあって、 みなさんが想像するよりは楽しい会にできるという目算もありますが、どのような日程、行程で、どの程度の予算で、などということは未定。 バスツアーなら日帰りでもOKだし、せっかく箱根まで行くのなら一泊しなければ、という人もいるでしょうし。

2月にまた松村氏をわずらわして、彼の新しいオフィスあたりで、昨年の世話人で 打ち合わせをしようということになっています。新しい幹事長に指名した小田くんにも連絡したところ、参加するそうです。

写真で私の隣に写っている若い人(といっても40代?)は山 路さんの昔の部下で岡山放送にいた方です。
(1月8日 馬見塚達雄)

島谷泰彦さんの新刊「修羅場をくぐった広報マン」

島谷新刊
島谷さんの力作
夕刊フジのOBのなかで長老扱いされていますが、なんの島谷さんはれっきとした現役で、講演や著作活動を続けています。2006年秋「修羅場をくぐった広報マン」(講談社 1900円)を出版しました。ご恵送いただいた著作に「夕刊フジOBのホームページでご紹介賜りたく・・・」とありました。

夕刊フジの編集局に通称「呑ん兵衛横丁」があり、その住人でしたが、ある日この方に命ぜられ日銀本店に取材に行きました。日銀総裁の会見で何も知らぬ小生は「何円で介入したんですか」と質問し、居並ぶ金融記者をのけぞらせた身としては、これは業務命令ですので、及ばずながら筆をとりました。

本の帯は高杉良氏。”筆者ほど「広報」を知り尽くした人を、私は知らない”とあります。辛口評論で知られる佐高信氏は今もテレビで「私は夕刊フジで育てられた」と公言しますが、最初の日に編集局内を島谷さんに連れられて挨拶に回っていた姿を覚えています。脳死から技術革命まで各種評論で大御所になった柳田邦男氏も島谷さんとともにありました。発掘し、育てた人たちは相当な数にのぼるでしょう。

退社後、財団法人・経済広報センターが発行する広報誌に「やじうま広報塾」を連載、持論の「嘘をつかない、隠さない、逃げない」広報であれと各社トップにインタビューをしながら広報論を啓蒙してきました。好評でそのままのネーミングの「やじうま広報塾」を開塾しました。

単なる広報技術論などでないだけに「企業は株主のもの」などという論に与しません。企業は社会のためにある、企業は志ある社員をつくること、と人づくりにも力をいれてきました。今をときめく松下政経塾の塾生にも講義し、文章の添削までしたそうです。その時の塾生に自民党の高市早苗、民主党の前原誠司、玄葉光一郎、国会から横浜市長転出した中田宏などそうそうたる名前を見ることができます。みな教え子なのです。

夕刊フジの時からのスクラップや、折々に書き留めたこと、自分がした企業トップへのインタビューや雪印乳業など転落した企業の広報担当者などとの交流をもとに書かれている「実学」だけに、この本の中には面白い金言、名言、箴言が随所にちりばめられています。テーマは広報ですが、島谷さんというジャーナリストの人生観まで含めた集大成です。

「おれんじ会」屋形船で船出

馬見塚さんの肝いりで夕刊フジOBの「おれんじ会」が発足、その第一回として平成18年5月20日、品川からお台場沖まで屋形船で船出しました。こんなところに船着場があったのかと驚くような、品川駅からえんえん歩いて、船宿「大江戸」から当日正午スタート。台風1号の余波で波風ともに高く、階段や板子一枚下をまったく信頼してなくて臆病な山路さんなどどうなることかと思いましたが、運河の中を選んで走り、お台場のフジテレビ沖合いで投錨、静かな中で弁当を食べ、飲み、談笑しました。

当日の写真は下記に掲出してあります。以下のURLからご覧ください。ここのクリックでも飛びます)

http://www.imagegateway.net/a?i=L7wCabV3r4

写真は18枚ありますが、元写真部員などのフィルム写真も集まると思いますので後日順次掲載します。掲載写真からプリントアウトも出来ます。当日の集合写真を下記に掲載しました。写真をクリックすればさらに大きなサイズになります。

「おれんじ会船出
当日の「おれんじ会」出席者は以下の39人の方々です。

会田茂 伊藤元彦 榎本福夫 榎本正男 大森浩 大山宰治 小笠原満 
小田孝治 川合芳久 川上浩一郎 酒井聖爾 佐藤将臣 佐藤実 志波吉勝 
芝沼隆一 島谷泰彦 下条勝也 神保重紀 高尾元久 高橋幸雄 田中絋太郎 
田中規雄 土屋達彦 勅使川原豊 当山久雄 長堀敏夫 西出義宗 野呂瀬務
萩原正人 原口順安 藤木順平 松村幸夫 馬見塚達雄 丸山正一 宮崎健 
村井禮仁 本光繁幸 山路昭平 山路洋子

「屋形船で一杯」は5月20日に

夕刊フジの『屋形船パーティ』は下記のように日時が決まりました。昨年「夕刊フジの挑戦」(馬見塚達雄著)の出版記念の集い、という ことでプレスセンターに120人が集まりましたが、そのとき、もっと頻繁にOB会を開いてほしいという声が寄せられました。馬見塚さんが、よし、それなら、と趣味の釣りからの発想で決定したものです。幹事団も結成されました。下に「おれんじ会」(会の名前をこのように決めました)としての第一回の召集案内として、馬見塚さんが筆をとった「檄文」を掲載しておきます。

案内状

すでに案内のハガキが届いていると思います。昨年の出席者名簿をもとにしていますが、この案内を見て、今回は参加したいという向きはメールまたは馬見塚、松村、酒井、島谷、宮崎の誰か連絡先がわかる人に声を掛けてください。

船ということで山路さんはじめ数人の船酔いに弱い人が二の足を踏んでいたのですが、「羽田沖の運河を100人ぐらい乗れる船でゆっくり行くだけで外海には出ない。しかも、スタピライザーのような酔い止め装置もついている新鋭船で、これでだめなら人間やめた方がいいくらい」という馬見塚さんの保証つきです。3時間程度の大航海です。

    日 時:2006年5月20日(土)正午から午後3時まで
    場 所:品川から出る屋形船「大江戸」
         (品川区北品川1−16−1)
    電 話:03-5479-7007
    会 費:8000円(ランチ、飲み放題ドリンク付)
    コース:北品川を午後零時半出船、
           お台場、晴海、汐留沖などを回り(下図で赤色のコース)
           午後3時ごろ帰着。

発起人 馬見塚達雄 松村幸夫 酒井聖爾 島谷泰彦 宮崎健 小田孝治

顧問 山路昭平

すでに案内状が届いていると思いますが、ご回答は4月30日までにお願いします。 問い合わせは「泉企画」(TEL 03-3518-2259)松村氏まで。

下に品川からの道順と、こんな内堀を走るということがわかるコース図を掲載しておきます。 船宿、「大江戸」のホームページもあるので、そちらもどうぞ。



「明美ちゃん基金物語」のビデオ提供(2006.1.15)

馬見塚さんから次のような申し出がありました。ご希望の方はこの欄の掲示板か直接馬見塚さんまで。

《昨年暮れにフジTVが放映した、細谷元編集局長の「明美ちゃん基金物語」は、その後、「大変に感動した」という反響が多く(産経新聞にも掲載されましたが)、ぼくのところへの年賀状にも、それにふれたものがかなりありました。とくに、ドラマではなく、二人が20年後に再会したときの感動的な実写があったのはぼくも初めて知り、思わずもらい泣きしてしまいました。

細谷夫人からも丁重な礼状をいただき、ぼくはただの傍観者だったのにと恐縮しています。しかし、見損なった人も多いらしく、正月に会った島谷氏にビデオを貸したところ、これまた大変に感動したというメールがきました。また、パリの山口さんから「是非観たい」というメールがあり、フジテレビがビデオ貸し出しにはうるさいというので、昨日ぼくの手元にあったものを送りました。

まだ手元にはもう一本あるし、島谷氏から回してもらうこともできますので、希望者にお貸ししたいと思います》


古老、山路邸に年賀に集う2006(2006.1.2)

毎年夕刊フジOBのうちでも固陋いや古老が山路邸に集まっています。平成18年(2006)も元気な顔がそろったようで、馬見塚さんのメールから紹介します。


今年も2日午後、島谷氏と一緒に山路邸に年賀に行きました。常連の松村氏は風邪、酒井、生原両氏も都合が悪くて今年は欠席でしたが、例によってビール、焼酎、日本酒を3人でがぶ飲み、途中で山路さんの岡山時代の秘書・山崎さんという女性(とても感じのよい、気の回る女性で、まあ、そうでなければ山路さんのお守りはつとまらなかったでしょう)が2時間ほど参加。彼女が帰ったあと、ぼくらもそろそろ、と腰を上げかかったところへ、前触れもなくはるばる千葉県から丸山老人が参加して仕切りなおしになり、結局、10時前まで居座って、奥さんには大迷惑をかけてしまいました。反省です。

写真はお嬢さんが撮ったものですが、じつはもう一枚、今回は送りませんが、珍しい写真が本棚にあったのでこっそりと複写しました。ナ、ナント、山路さんが「初孫」(息子さんの長男)と一緒に写っているものです。もう一歳ちょっとになるとかで、名前は「悠生(はるき)」くん。目鼻立ちのはっきりした、とても元気で利発そうな子供で、「もうちょっとしたら、『オジイチャン、お元気デチュカ』と携帯で電話してきますよ」というと、「バ、バカヤロー」と言いながらも、うれしそうでした。

ところで、その席で持ち上がった(というより、ボクが前々から考えていたことなのですが)話に、「昨年3月の会は大変盛り上がったけど、あれ一回きりではさびしい。今度は一つ、陽気がよくなった時期に、東京湾の『屋形船貸切パーティ』をやりませんか」という案に、海に弱いらしい山路さんはちょっと思案顔でしたが、山路夫人と島谷さんが大乗り気。あるていど人数がまとまれば、ホテルなどでやるのと大して変わらない予算(あるいはちょっと安く)で出来るはずだし、下調べをしてみようかと思っています。問題は参加希望者がどのくらいいるかですが、事前になにか調べる方法はありませんかね。
  馬見塚達雄


別府新社会部長の山路邸訪問(2005.10.19)

2005年10月19日、別府育郎・産経新聞社会部長と不肖・宮崎が山路さん宅を訪問しました。付き添い役が一番飲み食いしてすっかり出来上がったのですが、そのときの報告と写真です。

別府・夕刊フジ運動部長が産経社会部長に転出したのは2005年のニュースの中でも青天の霹靂の部類でしょう。温厚な馬見塚さんすら「ぶったまげた」といってました。今回、本人も「驚いた」といってましたから、まあ誰にとっても仰天人事だったわけです。社会部長の大先輩にご挨拶ということでこの日の訪問になりました。

夏ごろ、このHPの掲示板で紹介したように山路さんは「夕刊フジの若いの(別府育郎のこと)が本紙社会部長になるようでは、社会部も終わりやな」と断言しておりましたが、その後、終わりにもならず、「立場が人を作る」とおり本人も貫禄がでてきました。やけに黒いのが「遊びすぎ」のイメージを与えますが、そのとおりゴルフをやるようになったとか。ゴルフにのめりこんだ増井誠、渡辺秀茂、しなかった稲田幸男と社会部長経験者がガン死したあとだけに、ご用心を。

山路さんは食が細いものの元気でした。話が往時に飛ぶのは仕方がないでしょう。この日も青木彰、俵萌子、司馬遼太郎、石黒英一(大阪の経済部長)と東西本社の人名枚挙できないほどで、ドイツにまで及びました。急性大動脈瘤乖離で倒れたときは産経秘書室から笹井武久さん(大阪社会部デスクからサンケイリビング社長)の訃報を知らせる電話をとっていた最中でした。運ばれた横浜市大医学部附属病院がこの病気の権威で、おかげで助かったようなものなのですが 、医者を恫喝する、看護婦には当り散らすの病院一の困った患者で有名になってました(見舞いに行った時目撃した)。

バイパス手術した先端が感染症のようなことになり、いまも3か月に一度検診を受けているそうです。次は12月ですが「まあ問題ないな」と勝手に自己診断してました。洋子夫人や途中で帰宅した長女、淳子さんも加わって夜中近くまで盛り上がりました。淳子さんは現在「Shonan Beach」というFM放送のミキサーをしているそうです。子供のころ夕刊フジ一番の若手として遊び相手を務めたのが別府君だったそうで30ン年前の話に花が咲きました。

クリックすると大きなサイズになります 宮崎ばかり登場してますが、別府君撮影なので送られてきた時すでに恣意的操作が加わったためです。あしからず。 淳子さんの登場は大変珍しいと思います。

馬見塚さんから05年暑中見舞いです

「OBの集い」(=正確には「夕刊フジの挑戦 出版記念パーティー」です)から4か月。皆さんお変わりありませんか。 馬見塚さんから「元気です。この暑中見舞いのハガキをホームページに掲載して」ということですので、下にアップしました。

ほかの方もご希望がありましたら、こちらに掲載しますので、お送りください。テキストだけでしたら、掲示板に直接 書き込んでくださっても結構です。近ごろいろいろな方に読んでいただいているようです。

すでに削除しましたが江尻良文、高塚広司両記者の名前を使い誹謗する書き込みがありましたが、別府育郎部長によると 大変優秀な東西の編集委員だそうです。


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出版記念パーティー3月12日に

「夕刊フジの挑戦」が出版されたときからの念願でした「OBの集い」が決まりました。

夕刊フジに関わった全ての人に案内を出すべきかもしれませんが、「フジ新聞社」の時代の仲間で集まろうと いうのが会の趣旨です。内容は下に案内状を掲出しておきますのでご覧下さい。案内状は来てないがどうしても という方は世話人まで連絡ください。


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古老、山路邸に年賀に集うの図(2005.1.2)

「夕刊フジの挑戦」がめでたく出版された3か月余りのちの平成17年(2005)正月、写真のような集合写真が届きました。馬見塚さんのメールには、

「明けましておめでとうございます。今年もよろしくおねがいいたします。正月2日、古希すぎの年寄りどもが横浜の 山路邸に年賀に訪れ、なんと夜の10時過ぎまで山路夫人の美味しい手料理と焼酎のお湯割りで盛り上がりました。 この写真のあとに82歳の丸山老まで加わりました。山路さんもかなり飲んでいましたから、体調はいいようです。 その席で、陽春4月ごろをメドに「夕刊フジの挑戦」の出版パーテーを兼ねて夕刊フジOB会をやろうという話がもち あがり、酒井、松村、島谷の各氏が発起人候補になりましたが、お互い若くないので、やはりだれか気の利いた若 い人(といっても3,40代は無理でしょうが)が加わる必要がありそうです。もちろん、僕自身も全面的に協力する つもりです。という近況報告です。馬見塚達雄」

山路さんは昨年何度か検査入院したり、大阪の昔の仲間が欠けたりして元気がないと聞いていました。賀状も いつもは書き込みがしてあるのが、名前だけになっているので、すこし心配していましたが、写真をお見受けした ところ「まだ大丈夫だな」と安堵いたしました。

丸山さんは奥さんを亡くしてから寂しがって、たまに飲むと”離れたがらない”症候群の気配が見られましたがお 元気です。そのほかの方々は見ての通りでまだアクが抜けていません。

出版パーティーの件は後日このコーナーでも報告できると思います。上の文章でも分かるように、これは夕刊フジでの 上下関係がいまだに生きていて、「50代、60代がやれ!」という命令形であることは明白です。このへんを「若手」という のかどうかはさておいて、その意のあるところを察して、すでに動いています。2月の創刊記念日には間に合わないでしょうが なるべく早くということで。


タイトル「夕刊フジの挑戦」に(2004.7.28)

馬見塚さんのメールです。

「昨日出版社の担当部長と打ち合わせて、本のタイトルが正式にきまりまし た。『夕刊フジの挑戦 本音ジャーナリズムの誕生』といたってわかりやすいもので す。280ページのソフトカバーで1600円になります。全体の構成は初稿と変わ りませんが、小見出しや細部はかなり手を入れ、また書き出しにパンチを与えるた め、短い「プロローグ」をつけました。したがって「まえがき」はなし。「あとが き」はこれから書きますが、これもごくシンプルにしようと考えています。また、全 17章の冒頭に、その章を象徴するような夕刊フジのバックナンバーのコピーをあし らうことにしています。」


出版社が決まりました!(2004.6.11)

馬見塚さんの大作「夕刊フジ青春物語」(仮題)の出版についていくつかの出版社と交渉がありましたが、最終的に「阪急コミニュケーション」 から8月から9月に出版が決まりました。聞いたことがないところだと思われるでしょうが、以前「TBSブリタニカ」といったところです。

実は5月になって金田浩一呂・老人から電話があって新潮社が原稿を見せて欲しいといっているといってきました。この世界を少し知っている人なら お分かりのように「本づくり」にかけては老舗がダントツのチカラをもっています。装丁、宣伝、時間をかけてゆっくり売るノウハウ・・・でも話を先に もちかけたところへの義理もあります。内心、断ってきてくれたほうがいいのに、と思わぬでもありませんでしたが、「さすが手だれの方の筆になるだけあって 読ませる」と同社の出版会議に出されトントン拍子に決定となりました。金田老人すみませんでした。

「どういう人が読むのだろうか」といわれたこともあって、一方で買取の話も進めていました。ところが夕刊フジの加藤雅巳・代表が営業担当に 転出しました。後任は高尾氏といって夕刊フジプロパーではないだけに思い入れも違います。加藤氏は「無理に言えないしなあ」とあの調子です。 かといってあまりみっともない部数では格好がつかないし、これから販促の方のてこ入れが必要になるでしょう。これをごらんの皆様、そんなわけでいまから口コミ、 義理かけ、押し売り、バーター・・・なんでも結構ですので、売る心配の方を心がけてください。

この後の進行についてはまたこの欄で報告します。

別府育郎記者のメール(2004.5.9)

馬見塚さんの執筆が脱稿したというお知らせメールを出したところ、別府育郎記者からメールが来ました。昨年夕刊フジに戻ってきたそうです。 (どこに戻ったのかは知らないのですが)。「写経記事」は書いてません、ということで夕刊フジもまだまだ大丈夫だと思わせる内容です。 このままメールのゴミ箱に格納するのは惜しいので、 おほめのくだりは割愛して紹介します。ご指摘のよど号や柴田泰弘の消息は早速加筆掲載しました。

Subject: 「驚愕」

>  拝啓

>  宮崎大叔の軽井沢HP、初めて目にしました。その充実ぶりに、はて、これほどマ
> メな方であったかと、驚愕の行ったり来たりでありました。やはりブン屋の戯れ言、
> たわ言が興味深く、大先輩よりはるかに年若い身ながら古い習性は抜けがたく、印字
> して紙に載った活字としてゆっくり読ませていただきました。

>  思い出すのは2階の編集局の深夜のソファ。缶詰のソーセージを爪楊枝でつつきな
> がらワンカップを手に、毎夜のごとく聞かされた宮崎さんの座談の数々。
>「貴様らが 座るのは10年早い」と恫喝されながらこちらはスチール椅子にすわったま
>ま、「釜が崎のアラン・ドロン」の話も「あさま山荘攻防戦」の話も、そこで聞いた話であり
> ました。ぜいたくをいうならば、おそらく10回は聞いたであろう、何度聞いても面
> 白かった密かにお気に入りの「青木湖バス事故取材の顛末」もそのうちに上梓してい
> ただけたら、と思います。あれが僕らへの、一つの記者教育だったのかもしれません。

>  いまだに田中規雄らと飲むと、金田、小岩尚徳両大先輩のエピソードの数々を並べ
> るだけで、時間がいくらあっても足りません。酒席に加わる彼ら大先輩を知らぬ後輩
> らにも受けるものだから、競ってこんな話もあった、あんな話もあったと繰り出すの
> に、引き出しが尽きることはないのですから、その偉大さを改めて思い知らされます。

>  蛇足ながら、よど号機内で田宮らが、最初の寄港地をソウルと見破ったきっかけ
> は、手持ちのラジオに「思い出のサンフランシスコ」が流れたからだといいます。北
> のラジオにスタンダードナンバーはかかりませんから。38度戦を越える際には「北
> 帰行」を合唱したそうです。銃砲店襲撃の前には「彼なら銃器も持っているに違いな
> い」と大藪春彦邸襲撃も企て、先遣隊がファンを騙って訪れたところ、応接間に通さ
> れ、お茶も出してくれたことから襲撃先から外したという、のんきな一面もそのころ
> はまだあったようです。

>また、八尾恵のスパイ疑惑を最初にひっかけたのは私でした(警視庁公安担当時代)。
> 抜くはずが朝日横浜支局に先を越され、やや焦り気味に紙
> 面を先行させたきらいはあったように思います。結果的にはほとんどすべて正しかっ
> たことになるのですが。柴田は現在、のんきに渋谷やミナミの夜の街で、店の女の子
> に「おじさんは何をしていた人に見える?」「実は泥棒だったんだ」などと、酔っ払
> い中年と化しています。

>  千葉、東京社会、大阪社会部をまわって昨年7年ぶりに夕刊フジに戻りました。お
> 嘆きの惨状、中に居ると耳が痛いばかりですが、若干の言い訳をさせていただけれ
> ば、復帰後、運動面には「写経記事」は一行たりとも載せていません。徐々に、変え
> ていきたいとは考えています。
>  いずれ、どちらかの酒席で。実は、宮崎さんは一番怖い先輩でありました。
>                                        別府育郎拝


馬見塚さんの力作、脱稿しました(2004.5.7)
「夕刊フジ青春物語」(仮題)を執筆していた馬見塚さんの大作が脱稿しました。掲示板にご本人が書き込まれたように「16章プラスワン、500枚」という大作です。

3月ごろ出版、という話もあったので気にかけていた方もいたと思いますが、筆の早い馬見塚さんに比べ出版社の方はまだ決まっていません。 「原稿がすべてあるなら、見せていただきたい」というので、GW空けに向こうに手渡すという段取りです。

しかし、すべてCDに入っているのと(最初はフロッピーだったそうですが大部になりCDに入れなおしたそうです)、酒を飲みながら腰痛との付き合い を楽しんでいる原口順安氏の「校閲」もすんでいるということで、決まれば早いと思います。

パリの山口昌子さんからもメールがきて「どうなったでしょうか」というので、この報告を書いていますが、出版社が決まればまた報告します。

山口昌子さんの一時帰国で集まりました(2004.2.6)
山口昌子・産経パリ支局長が一時帰国するというので2004年2月6日(金)午後5時から、東京・有楽町の外国特派員協会に懐かしいメンバーが集まりました。「山口 昌子さまご帰国歓迎晩餐会」と看板は立派ですが、とりあえず連絡がとれたヒマだった8人は

山口 昌子
馬見塚 達雄
丸山 正一
島谷 康彦
小田 孝治
塩谷 安弘
土屋 達彦
宮崎 健

当初午後6時半開宴の予定でしたが、最近早く寝るらしく「5時にせい」と会場に他の客もいない昼間からの開宴にした張本人の、山路昭平氏は別掲の ハガキを寄せ、出席予定でしたが直前に古傷の手術を受けた病院から検査入院を命ぜられ出席かなわず。原口順安氏は 持病の椎間板ヘルニアが悪化、電話に出るまでえらく時間がかかり部屋を這いずり回っている気配で「出れたら出るが・・・」と寝たきり状態 のご様子。細野憲昭氏は昨年、定年で故郷の千葉県の旭村に引っ込み、昼に起きてコンビニのものを食い、昼寝して夕方から酒をかっくらいの毎日で、 1か月で2キロ太った末期的状態。毎日ヒマだけどこの日は初の確定申告の書き方を教わる講習会とか。

冒頭、昌子さんからみんなにちょっと早いバレンタインデーのフランス産チョコレートをプレゼントされた男どもには「初めてもらった」という前世紀の 遺物のような方もいましたが、たちまち昌子さんのことなどそっちのけで昔話に熱中していました。気がついたら午後9時30分。実質討議4時間半、 だれも全貌を覚えていないという中身の濃い話でした。

下に当日の写真を貼り付けます。何十年ぶりという再会の方もいましたが、たまたま全員が昔の面影が残っていて識別可能なのでいちいち名前を 挙げませんが、それぞれ元気に活動していることは各人の報告にありました。付け加えたいことがあればメールでといってありますので、メールが届き次第 また掲載します。

加藤雅巳氏は、この日はどっかの会社の社長と先約があるとかで、昌子さんとは別に日を作る そうですが、聞くところでは、夕刊フジのドル箱のサラ金(社内では正式には消費者金融)の営業収入が前年の7割減(つまり収入は前年の3割)に落ちたそうで、 本年2月25日の夕刊フジ創刊35周年を前にしても、とてもじゃないがパーティーを開く金がないと、例によってボソボソと聞き取れない声でボヤいていました。

馬見塚さんの執筆の方は順調で、もう半分以上書き上げたそうです。緻密な方ですので、関係者のインタビューを週に2、3人こなし、ほとんど毎日のように産経の調査部に通っているそうです。私 も記憶の前後が後先になっていることを指摘され、ボケが始まっているのかと暗澹とさせられました。夕刊フジばかりでなく本紙の現役の連中は インターネットで調べるクセがついているようで、3時間調査部にいてもほとんど誰も来ないそうです。「あれじゃダメだ。それにしても昔の連中は文章がうまかった」 とそれぞれを喜ばせるようなセリフをはいていました。現役夕刊フジの記者には毎日の仕事内容を聞かれて「写経です」と抜かすのもいるそうです。 朝刊をみて書き写すだけということのようで、だれがみても書き手は育たない現状は情けないことです。

それはともかく、この日集まった連中でなんとか出版のお手伝いをしようということになりました。ひとつの新聞に情熱を注いだ青春の物語は、OBだけでなく一般にも 受けるのではないかという意見が多かったのです。第一、夕刊フジでパーティーが開けないなら、この出版パーティーでみんなまた集まろうということになりました。 そのほうが義理で呼ぶ冷ややかな連中もいないし、このタブロイドに愛情を持っている昔の仲間だけの方が盛り上がっていいんじゃないかということです。

とりあえず写真を貼り付けます。マウスを当てて手形マークが出るものは大きなサイズになります。コピーしてDPE屋に持っていけば紙焼きにもなります。(あまり希望者はいないでしょうが)

山路さんのハガキを紹介します。「検査入院なので病院も教えない」そうですが一応お元気な様子です。 ただ、前回の入院では看護婦に文句は言う、恫喝する、奥さんには当り散らす、と最低の患者として院内に 鳴り響いていてそっちの方が心配です。

山口昌子さんの便り

2003年末、馬見塚さんは取材の必要上、宮崎は懐かしさから、相次いでパリの山口昌子・支局長に手紙やメールを出しました。 元気なのは産経紙面でもお分かりでしょうが、返事に夕刊フジの思い出や”あの”土井あや子さんの消息などが書いてありました。 紹介します。

> メールありがとうございました。
> 懐かしく拝見しました。先日、馬見塚さんからお手紙をいただき、お電話でお話しました。
> 夕刊フジは創刊号に長谷川肇 というNHKのアナウサーがテレビ朝日のキャスターになったという
>ニュースを書いた記憶があります。
>馬見塚さんには佐川事件の刑事と予審判事がその後、どんどん出世したり有名になった話をしたら、
>面白がっておられました。皆様の憧れの素敵 な土井あや子さんは相変わらず美人で素敵でした。
>3年前だったか、パリにやってきました。ご主人と一緒に新聞を発行しているそうです。
>ご主人の話をすごく楽しそうにしていました。その時、ご次男といっしょでした。
>主婦としても母親としても立派になられて、感心しました。
> パリはすっかりクリスマス景色です。
> どうぞ、お家族をはじめ、夕刊フジの皆様にも宜しくお伝え下さい。
> 季節柄、お風邪など召しませんように。
> 山口昌子

なにか夕刊フジの記録がほしいなあ、ということになったのはこの時からです。そのいきさつやその後の動きの記録 です。タイトルも決まっていなくて「夕刊フジ青春物語」として話がすすみました。

尾登さんの通夜
(2003年4月2日 磯子駅前2次会風景= 馬見塚さんのデジカメから


話はこの通夜から始まりました(03年5月14日記)

始まりは尾登辰雄氏の通夜の席です。上の写真のようにOBが集まりました。 そして来年夕刊フジが35周年を迎えることから、何か記念の文集を出したいということになりました。 実は前から馬見塚達雄・大先輩に勧めていたのですが、君がやれといわれるし、山路さんに言うと お前がやれとなるので困っていました。

やるのはやぶさかでないのですが、なにしろ「貫目」がたりないので、もっぱら先輩をたきつけてばかり いました。そうしたら尾登さんの通夜です。これを書いている5月13日は整理部の林清さんの訃報です。 そんなめぐりあわせになってきました。

馬見塚さんがこの秋にOBの集いを計画していることも知りました。通夜の席では、先輩に「そんなことは 加藤君に任せて、小冊子作りを急いでください」と申し上げました。そうしたら馬見塚さんが猛然とその気に なってくれました。G・Wには山路宅をたずねたりして、別紙のような企画・報告の手紙が来ました。

「マミーよ、ペンを取れ!」の馬見塚さんがペンを取ったのです。もう出来たも同然です。 檄文のかわりに馬見塚さんの手紙を下に掲載しました(無断です)。そしてこのホームページの一角を 作業台がわりにしてもらおうと、関係者だけ見ることが出来るURLをつけました。

メール時代なので仮にここにアップしておけば、人が何を書いているかわかってダブりもなくなると思ったのです。 何人かの方には馬見塚さんから執筆依頼が行っていると思います。あの人にあのことを書いてもらいたい、という のがあればメールをください。書いておきたいという方もどうぞ。ゴルフ担当だった福島靖氏と最近偶然会い 人間グリーンの下りを是非と申し上げておきました。夕刊フジ”オールカマー”です。

馬見塚  tmamizuka@yahoo.co.jp 
(今年マミさんがパソコンを始めました。返事は早いです)
宮崎   miyazaki@t00.itscom.net

下にあるのが馬見塚さんの手紙です。とりあえず読める程度に貼り付けたものです。



いきなり訂正記事です(03年5月15日記)
このホームページの開設とともに、お知らせメールをだしたところ、即座に多くの方から反応がありました。一方現役を中心にアドレスが 変わっていて返ってきたものも数通ありました。

馬見塚さんからも返信メールをいただきましたが、大事なことで先輩の方針と違っていたので、大慌てで訂正します。みなさんから原稿を集めてマミさんが編集して、と考えていたのですが、もっと大変なことを計画されているのです。

小生が計画しているのは、あくまでも客観性をもった「ドキュメント」であって、皆さんから寄せていただいた思い出の「断片」を集めた「文集」にしようというのではないのです。したがって、今のところ、最も重要な立場の山路さんにも執筆は頼んでいません。カギになる人には、小生が直接インタビューして話を引き出し、それを取捨選択して編集するつもりです。また、早くに産経を去りましたが、夕刊フジのアイデアを持ち込んだ先輩や、ライバル紙日刊ゲンダイ,東京スポーツの関係者にもインタビューする予定です。産経に残っている記録や調査部でバックナンバーの閲覧などもボチボチはじめるつもりです。  なぜこのような形にするかといえば、@皆さんに書いてもらったものを当方で取捨すると、あとで「なんでオレの原稿を使わないんだ」なんて苦情が出ると困る A重複する話がでてきたり、あるいは人によってまったくちがう話になっていることがありがち B第三者に読んでもらうためには、あまり内輪話だけではかえって面白くない--などの理由によります。  もっとも、寄せてもらったものが面白かったら、小生が企画している「ドキュメント」と「文集」の2本立てにしてもいいかなあ。あるいは、宮崎兄のホームページに掲載するのもいいかなあ--などと考えています。何分にも、まだエンジンを温めている段階で,資料集めに着手したばかりですから、どこへ流れていくのやら。

一言もありません。イージーにまとめようという私の魂胆とは違って腰をすえて取り掛かろうというのです。新聞記者のはしくれは恥じ入るばかりです。