
夕刊フジのOBの皆様お元気ですか。ここは「知る人だけ見られる」夕刊フジの
ホームページです。「夕刊フジの挑戦」が世に出るまでの動きと、OBの近況や動きを伝えます。

(本来OBの交流ページだったので、やや内輪話になります。ご承知おきください。下から上に新しく積みあがります)
見出しクリックで飛びます
山路さん一周忌・「偲ぶ会」は6月16日(2012.5.10)
山口昌子さんの新刊2冊(2012.4.28)
金田浩一呂氏 逝く(2011.7.23)
細野くんを悼む(2011.6.21)
山路さんとともに夕刊フジの終焉(2011.5.27)
小田孝治氏死去(2010.12.16)
「おれんじ気まま会」(2010.10.23)
山口昌子さんの新著「ドゴールのいるフランス」(2010.6.9)
「人間 井深大」(島谷泰彦著)が17年ぶりに文庫版で登場(2010.3.19)
山口昌子さんにフランス勲章(2010.1.31)
おれんじ会有志集合(2009.11.7)
恒例、山路邸2009新春(2009.1.2)
叔母に引導を渡したのは(2008.6.12)
「第3回おれんじ会」の写真(2008.6.5)
萩原正人氏 近況です(2008.5.15)
恒例、山路邸の新春(2008.1.2)
2007年追想録(2007年末)
40周年で馬見塚さんインタビュー記事(2007.11.5)
全舷のアルバム(2007.6.1)
2007 箱根で全舷だ!(2007.3.15)
2007新年の山路邸(2007.1.2)
島谷さんが書いた本(2006.11.10)
「おれんじ会」屋形船で船出(2006.5.20)
「屋形船で一杯」 5月20日(2006.3.23)
「明美ちゃん基金物語」のビデオ提供(2006.1.15)
古老、山路邸に年賀に集う2006(2006.1.2)
別府新社会部長の山路邸訪問(2005.10.19)
馬見塚さんから05年暑中見舞いです(2005.7.8)
出版記念パーティー3月12日に!
古老、山路邸に年賀に集うの図(2005.1.2)
山口昌子さんの便り
昌子さんを囲む会(2004.2.6)
馬見塚さん、脱稿しました(2004.5.7)
別府育郎記者のメール(2004.5.9)
「夕刊フジ青春物語」の出版社決まる!(2004.6.11)
尾登さんの通夜から始まった


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| 山路さん逝って1年 |
山路家の一周忌法要はお身内だけで行われるとお聞きしましたが、われわれ夕刊フジの生き残りOBは厳しくて温かかった故人の人となりを懐かしく思い浮かべ、夕刊フジのさらな る発展に努力している後輩諸兄としては、この一周忌を期に、改めて故人の業績、生き方に学んでそのエキス、パワーを吸収してほしいと思い、「おれんじ会」による「偲ぶ会」を 催します。
会には洋子婦人はじめ山路家のご家族も出席される予定で、「家ではあまりよく知らなかった故人のことを皆さんからお聞きしたい」とのことです。また会ではここ一年半の間 に亡くなった小田孝治さん、細野憲昭さん、金田浩一呂さん、星裕さんも偲びたいと思います。ご参加、宜しくお願いいたします。
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山口昌子さんが21年間の産経新聞パリ支局長生活を終えて退社したことはOB諸氏もご承知でしょうが、紙面では”元支局長”の肩書でフランス大統領選の行方など相変わらず健 筆をふるっています。2012年4月23日、その昌子さんからメールが来ました。「パリはこのところ、真冬の寒さがぶり返し、私もこの春はずーと体調を崩して赤血球や血小板が急 低下し、輸血や点滴のために入院しました。東京でのすみかもどうやら、目処が立ち、10月に帰国します。最近2冊本を出しましたので夕刊フジの皆様にご紹介ください」とのこ とでした。
実は山口さんは昨年の暮れに一時帰国しました。押し詰まった12月27日ということもあり、急遽連絡がついた馬見塚達雄、島谷泰彦、萩原正人、宮崎健の5人でプレスセンターで会 いました。そのときの写真が萩原氏から届いていたのですがちょうどそのころ宮崎のパソコンがダウン、買い替えなどに手間取りOBのページへ掲載のタイミングを失しました。
その著作ですが
、1冊は4月20日発売された『なぜフランスは一目置かれるのか プライド国家の流儀』(産経新聞出版 定価1680円)です。平成19年以降に産経で連載された
大型コラム「パリの屋根の下で」「緯度経度」などから120編を厳選したもので、「フランスは何故原発に拘るのか」「何故デモを愛するのか」「何故ユーロを守るのか」など数
々の「何故」でフランスの政治、外交、軍事、文化…をいろいろな角度から切ったものです。
もう1冊は『原発大国フラ
ンスからの警告』(ワニブックスPLUS新書、定価 882円)です。「原発は環境ではなく、エネルギー、つまり国の独立の問題だ」とフランス人は言そうで
す。フランスの原子力による電力への依存は、フィンランドと並んで77%。「再生可能エネルギー」などとあやふやなものにすがる日本をよそに、がんとした理念を持って推し
進める原発大国の「なぜ」を「仏メディアはフクシマをどう報じたか」「フランスはなぜ原発大国になったのか」など6章で分析しています。
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| 夕刊フジ掲載の訃報。 |
夕刊フジ・産経新聞ばかりでなくマスコミの文壇関係の名物記者、金田浩一呂氏が亡くなった。金やんがながくつきあった夕刊フジの2011年7月23日付けの紙 面を左に掲載したが阿川弘之氏のコメントも寂しそうだ。
それにしても5月山路さん、6月細野、7月「かねやん」と夕刊フジ名士の鬼籍入りがつづく。実は2月にメールをもらい「がんとつきあいながらそこはかとなく 生きている」とあった。金やんらしい従容とした雰囲気で私もそうありたいと思わせられた。入院していて娘さん2人が世話をしていると 聞いていたものの 、メールも手紙も通じず病院が分からないまま、先を急ぐ人が続き後回しにしているうちに訃報がやってきた。見舞いの借りもあったのに義理を果たさぬま まに彼岸に行ってしまった。
金やんのことは「抱腹絶倒記者」として自分のホームページに駄文を書いた。金やんのはちゃめちゃぶりを書け、といったのは細野憲昭である。有楽町の外 国特派員クラブで開かれたコンサートで一緒になったときのことだ。確かにこんな人間めったにいるものではない、と思い出しつつ書き出したが、次から次 とネタが出てきて長くなった。
インベーダーゲームが一世を風靡したときである。このはしかのようなものを夕刊フジに持ち込んだのはマスコミ初の女性の文化部長、宮部(青山)タキ女 史と小田孝治である。この手ほどきで誘い込まれた編集局の記者が次々と熱中した。大手町から日本橋、神田周辺のゲーム機を求めてさ迷い歩き、昼休みが 3時間以上になるほどトチ狂った。
そのとき目の色変えて「全インベーダー撃滅。第2ステージ突入」とやっていたのが、およそこういうものとは無縁と思われた細野、金やん、そして付き合い のいい宮崎で、このサボり連中はブームが去った後そのまま「バックギャモン」になだれ込み、帰りが深夜に及ぶこともあった。
細野の手紙に「楽しかった。なにしろ給料もらいながら遊んでいたのだから」とあったがその通りである。 名前を挙げた順番に鬼籍に入り、残っているのは私ぐらいである。これはもう逃れられない順番だと納得している。
先週、芥川・直木賞の発表があった。今回を除いてほぼすべての選考会場に金田浩一呂の姿があった。今では産経抄のコラムを書いている田中規雄論説委員が あるとき覗いたら新喜楽の床の間の柱にもたれて居眠る金やんに司会者が「金田さん質問はありませんか」と必死に声をかけていたという。
金やんが居なくなったら、芥川・直木賞なんてもうどうでもよくなった。
(宮崎 健)
「こよなくなつかしい人を喪って、こよなく淋しい」(阿川弘之)
「本当に長い間お世話になりありがとうございました。私も年をとり伺えないこと、お許しください」(遠藤順子=遠藤周作氏夫人)
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| 阿川家を代表して阿川佐和子さん、曽野綾子さんの追悼文が寄せられた。8月5日夕刊フジ クリックで拡大 |
ことし1月7日に、金田さん、荻野さん、わたしの三人が平塚で会食したのが最後になりました。そのときはまだ元気で、引越しの話なんかも出てましたね。 3月初めに私がウィーンに戻ってからは、メールでも連絡が取れなくなっていました。入院されていたんでしょうか。ご冥福を祈るばかりです。(岡芳輝)
「高杉良さん、佐高信さんとの出会いのきっかけを作ってくれたかねやんありがとう。安らかに。(島谷泰彦=夕刊フジ元経済部長。現役時代、金田さんの アドバイスや推薦で、まだ新進だったお二人を抜擢して連載に踏み切り、夕刊フジの紙価を高めた)
「天国の山路さんへ電話の金田さん「モシモシ金田ですが、どちらさんですか?」「バ、バカヤロウ!早く天国に来い!」と山路さん。夕刊フジの“ゴッド フアーザー”で癇癪持ち天下一品だった山路元社長と春風駘蕩のかねやん。まったく対照的な個性が編集局を緊張させたり、和ませたりしました。その山路 さんもこの五月、一足先に天国入りです(元整理部長、佐藤実)
「私は金田さんを宇宙人と称していた。書評の出稿がいつもギリギリで遅く、私は整理部員を代表したつもりでいつもケンカ役だった。いまとなっては飄々 とした人間性が懐かしい」(元整理部員、川上浩一郎)
「三田文学にお願いした原稿について「書けない、ごめん」と電話をいただいたのが最後になりました。金田さんは私にとってもっとも印象深い方でした」 (三田文学 加藤宗哉)
「あの雰囲気を持った人はフジテレビにはいません。新聞は偉大です」(フジテレビ専務取締役太田英昭=草創期の夕刊フジにフジテレビから出向して金田 さんの薫陶を受けた)
「君が現れるとそこにいた皆は思わず微笑した。そちらに行った時もそうなんだろうね」(峯島正行)
「天国では遠藤周作先生や谷田さん、藤田さんが待っていますね。あちらで一杯やりながら囲碁を楽しんでください。いろいろな思い出をありがとうござ ました」(高木香織)
「宇宙を越えてしまった金田さんと今度は「天国棋院」で碁を打つ日を楽しみにしています。安らかに(高田幸子)
「宇宙棋院のときに遠藤先生からお聞きした数々のユニークな金田さんのエピソードが懐かしく思い出されます{黒田尚子}
(ほかにも、宮野麻紀さん、石光佐千子さん、岸佳子さんらから送る言葉が届いています。金やん、宇宙棋院ではとりわけ女性に人気があったようです。また、あれで(失礼) グルメでもありました。中丸美恵絵=よしえ=さんによると「安いもの専門」今時流行のB級グルメを先取りしていたのです。)
「神田の三州屋でよく昼食を食べましたね。時にはお昼から日本酒も」(夕刊フジの後輩、小泉良夫)
「神田藪そば、神田まつや、人形町芳味亭などの老舗でよく昼食をほ一緒させてもらいました。いい思い出です(後輩の鶴谷和章)
「貴兄が教えてくれた「食べ歩き」の楽しみ、いろんなところでずいぶんと役に立ちました。ありがとうございました」(清水孝夫=かねやんの あとを継いだ元夕刊フジ文化部長)
「ゲラを配りに行った私に机の引き出しを指さして一言「食べますか?」桃屋のラッキョウの瓶詰が蓋をあけていました。(芝沼隆一)
「夜、酒を飲むからといって昼食を抜くのはよくないと、なんども忠告したのに…」(高山正之=当時の報道部記者、現評論家)
「40年ほど前、宮崎にプロ野球巨人軍キャンプの取材で出張するとき、かねやんがボソボソっと「妹が市内で喫茶店をやっている」と言ったので、3、4 回ほどお邪魔した。かねやんによく似た30代のすらっとした美人でじつに心やさしく、コーヒーの香りも味もすばらしかった。いい思い出です」(安藤徹元写真部員)
金田さんは7,8年前、横浜南区の婦人会館で文章教室の講師をしていた。私も横浜住まいであるとき横浜駅でばったり会い、二人とも昼ごろに都内へ出勤し ていたので、それからも何度か電車でご一緒することがあった。そのたびに「グリーン車でメシを食いながら行こう」と豪儀なことをおっしゃる。「崎陽軒 はまずいが浜御膳というのだけはうまい」というので、ずいぶん探して食べた。夕刊フジ時代に、神田の藪そばで五段重ねというのを好んで食べていたとか で、食にはこだわりがあったようだ。
その後私が勤めを辞めたこともあって、しばらく会わなかったが、癌を手術したという話を聞き、昨年の5月、退院してまた文章教室の先生をしていた戸塚の カルチャーセンターに会いに行った。案内を乞うと、レインコートを着た長身の老人が出てきた。髪が真っ白になっていたが、飄々とした雰囲気は変わって いなかった。
「おお、きみか。何をしている」 約束したのにいきなりこれだ。
昼食時だったが、病気明けなのに「タバコが吸いたい」というのでそんな店をずいぶん探し、仕込みをしていたカラオケスナックに入って、飲み食いしな
がら話し込んだ。癌が転移していると聞いて暗澹たる気持ちになったが、ご本人は気にするふうでもなく、「一人暮らしを楽しんでいるよ」と言っていた。
「『恐妻家日記』という本を出したら家を追い出されてしまってな。まさか女房が読むとは思わなかったよ」とも言った。相変わらずどこまで本気で言って
いるかわからない。
やがて小説の話になった。金田さんは一編だけ小説を書いたことがある。「三田文学に『温泉芸者桃子』というのを書いた。一応『雪国』の駒子をイメージし たんだが、待てよ、桃江だったかな。どっちにしても昔飼っていた犬の名前だ」
こんな調子だから話は尽きない。硬派の社会派記者を目指していたという産経新聞甲府支局時代の仕事ぶりなど初めて聞くエピソードもあり、店を代えて夕 方まで話し込んだ。
金田さんと話していて20代だった夕刊フジでの日々を思い出した。あのころ、会社というのは楽しいところだと思っていた。何しろ、金田さんのような 人が部長をしていたのだ。失敗もしたし金もなかった。辛いことも多かったけど、僕たちはそれさえも楽しんでいた。しかし今はどうなんだろう、帰りの電 車でそんなことを思った。
とにかく、いつまでも消えない印象を残すひとだった。何年か前に流行った「千の風になって」吹きわたっているような気がしてならない。
私は金田さんに、お行儀作法を教えていただきました
20代後半の私は金田さんの元で文芸記者見習い修行の日々を送りました。思い出すと楽しかったことばかりです。最初に担当した五味康祐さんは大音響の
クラシックをバックに自宅玄関に着物を翻して現れ、忍者のようでした。林真理子さんや村松友視さんらのエッセイの原稿取りにお宅に伺い、何を話してい
いかわからず、目が★マークになりました。
一番楽しかったのは遠藤周作さんの狐狸庵対談をセットする役目で、お茶のつぎ方からお客さまへの配慮まで、
金田さんと遠藤先生の座談とはこういうもの…というお話を聞きながら、私はお行儀、お作法を覚えました。まったく気の利かない無調法の私を、おおらか
に見守ってくれたのが金田さんでした。「贅沢な日々を本当にありがとうございました」という思いでいっぱいです。昨年、千野境子先輩と田中則雄さんと
お見舞いに行って、大磯まで皆で散歩したのが最後となりました。お見舞いしたいと思っていた矢先の訃報です。心から、ご冥福をお祈りしています。
久保田るり子
その金やん、さっさと密葬をすませるよう遺言したとかで誰もが遅れをとった。そりゃなかろうがと有志が音頭をとって2011年8月26日(金)午後6時 から東京・大手町産経会館・サンケイプラザで「カネやんを偲んで『天国』に送る会」が開かれた。
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| 当日の模様を伝える8月27日夕刊フジ クリックで拡大 |
折から雷鳴とどろき、丸の内線が豪雨で止まるという天変地異。己の所業が暴露されるのを金やんが怒っているかのような予兆だったが、はたして驚天動地のスピーチが 飛び出した。やっぱり彼は只者ではなかったのだ。
衝撃のスピーチは親交深かった遠藤周作の長男、フジテレビ常務、遠藤龍之介氏の口から飛び出した。フィアンセとともに父の仕事場を訪れたらいきなり「龍之介君は 婚前交渉は済んでいるんですか?」と聞かれたという。彼女は真っ赤になるし父親は「親の私でも聞かないことを・・」と怒り出すしという修羅場にも金やんはは恬として恥じなかったという。 いやはや金やんについては、大概のことには驚かない会場の人たちも唖然呆然だった。
黒井千次氏の話では金やんは余命何ヶ月かの宣告を受けるや直ちに身の回りの整理を始めた。周囲に知らせる必要はない、密葬ですませろ、遺骨は散骨せよと娘さんに伝え机や文書も 整理した。ところが余命宣告の時期が過ぎても「そこはかとなく」(本人からのメール)生き続けた。食べようにも書こうにも回りに必要な品がない。 これには金やんも困ったらしい。
それにしても遠藤龍之介氏のスピーチには驚いた。よくもまあ聞けたもんだ。やっぱり金やんは宇宙人だったのだ。この日のタイトルは「カネやんを偲んで『天国』に送る会」とある。 参会者はだれもしっかり数えていないが数十人から百人近くだった。集まった人たちは天国に行けるにしても、送られる金やんは宇宙人である。はたして宇宙人に天国はあるのだろうか、心配だ。
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| 阿川佐和子さんのスピーチ |
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| 黒井千次、阿川佐和子、遠藤龍之介の各氏(左から) |

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| 細野憲昭くん (2009年11月7日横浜での「おれんじ会」で) |
夕刊フジ草創期から報道部、運動部で健筆をふるい、陽気でおしゃべりがなにより大好きだった細野憲昭くんが19日(日)昼前、入院先の千葉県旭市の病院で心不全のため亡くなりました。67歳。 通夜は25日(土)午後5時から、告別式は26日(日)午後1時から。旭市新町625の葬祭場「アイホール」(電話0479−62−0355)で。喪主は長姉の細野恵子さん。
数年前に産経を定年退職後、亡母の住んでいた旭市の実家に引きこもって、好きなビールと読書三昧の悠々自適のリタイア生活でしたが、2,3年前に前立腺癌を発症して放射線治療を。 前にもこの欄で紹介したように、今年3月には旭市も震災、津波の被害を受けて細野家も危ないところ。さらに4月には突然、大動脈弁脈症という心臓病 襲われて救急車を呼んでの緊急入院、一旦は回復して退院しましたが、5月中旬に再発して再度救急入院、その後、病院で心臓と前立腺のダブる治 療を受けていました。
ただ、このことは身内(といっても生涯独身ゆえ、3人の姉とその家族)しか知らなかったのですが、5月下旬の山路さんの通夜、告別式に顔を見せず 、電話連絡もないので、あの律儀な男にしてはおかしい、「よもや」と思い、旭市の大病院に電話して入院がわかったので、6月初旬に見舞ってきました。 その時の印象は体型こそあの小太りだった細野くんとは思えないほどスリム化していましたが、お喋りの方は健在で、ベッドの上に座って2時間あまり話し 込むうちに、血色もよくなり元気になったような気がしたものです。
そのあと、彼が親しかった何人かに電話やメールをして、元気づけの手紙を出してく れないかと依頼、それに応じてくれた何人かには返事もきたようで、こう急に亡くなるとは、僕もその人たちも、まったくの「想定外」でした。 お姉さんに電話して様子を聞いたところ、、亡くなる前、何人かから手紙が来たことを、ことのほか喜んでいたそうです。心から冥福を祈ります。合掌。◆ ◆ ◆
おーい細野、昼酒やってるかい![]() |
| 細野の絶筆となった手紙1 画像クリックで大きなサイズに |
山路さんから1ヶ月もたってないのにお前さんかい。マミさんは「くん」づけしているが一度も敬称で呼んだことがないのでこっちでいくが、東日本大震災で細野の すぐ近くまで津波が来たが本人はなんとか無事で、昼酒かっ食らっていると云うので祝着至極と思っていたが、山路さんの時姿が見えないので、どうしたんだとOBの 間で話題になった。
一番心配したのが、今では夕刊フジOBの(冠婚はないので)葬祭担当として奔走する馬見塚さんで、横浜が一段落したらすぐ片道3時間かけて飛んでいってくれた。 そっちから何も連絡ないので元社会部記者らしく「旭市で大きな病院」というところから片っ端から電話して割り出した。
今では「旭市」なんて大層出世した地名だが昔はこれを酒の肴にして何時間でもしゃべったものだ。なにせ「千葉県旭イの181」で手紙が着く。なにか略したわけでなくこの住所 がすべてだという。いまでこそ市になり枝番号がつくが「お前さんのところは徳川時代の検地のままなんだ」と以後、名前は省略して「旭イの181」と呼んでいた
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| 細野の絶筆となった手紙2 |
下町の文人が集まった浅草のお好み焼き屋「染太郎」に一緒に出入りし、今では永井荷風の作、と断定されている「四畳半襖の下張り」裁判では被告、野坂昭如の肩を持ち、 まもなく発禁処分になるというので「面白半分」を手に入れるべく走り回った。いまなら、ネットで簡単に手に入るのだが、細野は親分と慕った原口順安センセイを見習ったのか、そっちのほうに はまるで無知。すっとアナログ人間だった。メールで簡単に連絡が取れる人が多い中で最後まで手紙しか通じず、前世紀の遺物を通してくれた。
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| 細野の絶筆となった手紙3 |
こっちからの手紙には「お前さんは昼過ぎから飲み始めるそうだが、生意気だ。先輩のオレですら飲み始めは午後4時からだ」と書いたが、返信に酒の話は ない。病院で酒断ちしていたせいかもしれない。そっちで好きなだけ飲んでいいよ。
(4つ先輩の 宮崎健)

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| 産経新聞掲載の訃報 |
山路さんが83歳で新聞人としての人生にピリオドを打ちました。永田照海、山路昭平という類まれな個性に率いられて夕刊フジはスタートしました。驚異的な 部数を達成、鎌倉の文化人から文章教室の教材に選ばれたり、「ぴいぷる」や写真が本になったこともあります。スクープは数知れずです。近年、ネット社 会という構造変革の前に読者層に断層が生じ、往時の勢いに翳りが見えてきました。山路さんが逝った今、夕刊フジの時代が終わったという思いです。
ご存知の通り癇癪もちでしたが、山路さんらしい最後でした。3か月前に自宅で転倒して肋骨骨折、入院後今度はベッドから転落(本人がチューブを引き抜い て暴れたのが原因)肋骨7本を折ったうえ肺出血を起こし一時は危篤状態に陥りました。
その後、意識不明のまま入院、治療を続けていましたが、ゴールデンウイークにはもしやということも考えられる状態で、夕刊フジOBは馬見塚さんを連絡役 にして見舞いも控えて待機していました。
18日ようやく退院、自宅治療を続けることになりました。「退院」と言う言葉で周りも安堵、よかったとハガキをよこした人もいました。本人も返事を書 くといって万年筆を持ってこさせたものの筆を走らせる力はありませんでした。
この万年筆は創刊25周年のパーティーの折OB会からプレゼントしたウ ォーターマンです。もっとも、パーカーに変わっているかもしれません。ああいう人なので、銀座・伊東屋の売り場には話をつけ、メーカーはもちろんペン先も好み のものに取り替えられるようにしておきました。「翌日、ご本人がおいでになりました」と売り場から連絡がありました。ほめ言葉を口にする性格ではない ので、こういう形でしか反応を知ることはできませんが、いたく気に入ってもらえたようで、ずっとこれで、届いた書状には即返事を書いていました。それも、 鳩居堂に特注のこだわりの便箋と封筒で、前文なしいきなり本文の例の調子です。
自宅に戻ったもののまだ意識はさだかではなく、会話や意思疎通などもほとんどできず、食事も以前から本人が「拒食症」状態なので家族(おもに夫人)が「胃 ロウ」という方法で管で胃に直接栄養分を注入するという手のかかる自宅治療法を続けました。亡くなる直前、ふたたび容態が悪化、救急車が呼ばれました が例によって、大丈夫だから帰れ、と本人は救急隊員に命令する始末。
自宅前で救急車に乗せるまで1時間以上かかるという騒ぎを演じた(夫人の話)挙句、無理やり運ばれたもののやはり持ちませんでした。肺気腫などの既往 症があり、死亡診断書には表記の病名のほかたくさんの病名が並んでいました。枕頭で「おっさん、これは自損行為でっせ」と言いましたが、いつものよう に青シャツ専科のダンディーな寝顔でした。
自宅に戻ったとき、夫人が「家に戻れてよかったですね。頑張りましたね」と言ったら、「お前も頑張ったな」とねぎらいの 言葉を口にしたそうです。一方的に怒鳴りまくり、はた迷惑 な印象を持つ人もいるでしょうが、シャイな性格の持ち主でした。うらはらな表現しかできませんが、「お前もな」というひとことに万感の思いを振り絞った のだと思います。さすがに洋子夫人は感じ取り「はじめて聞いたやさしい言葉」とうれしそうにかみしめていました。
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葬儀も山路さんらしいものでした。親子三代新聞記者は有名ですが、初代・愛山はクリスチャンだったそうで葬儀はキリスト教でした。葬儀中、牧師が 「金次郎さん(愛山の長男)がしっかりしないと・・」と語った言葉に怒った次男の久三郎(2代目・新聞記者)が、「バカヤロー!この葬儀止めろ!」と ぶち壊して以降、やむなく山路の家は耶蘇と縁を切り(切られた?)、久三郎からは無宗教という、「癇癪もち三代」の素行の結果だといいます(弟の山路洋平さ んのメールから)。
大阪梅田・桜橋の産経新聞大阪本社2階に編集局がありました。山路昭平・社会部長がいる同じフロアに大阪新聞があり、そこで久三郎氏は社長とか役員 とかを長くつとめ、よく息子のいる社会部長席に姿を見せました。怒られる心配のない 下っ端は平気でしたが、デスク以上の連中はたちまち緊張したものです。「親子2代に怒鳴られた」というのがぞろぞろいました。
関東は通夜の客が多く、関西は告別式の客が多いのですがその通りでした。通夜では馬見塚さんが親子三代新聞記者や比類なき癇癪もちだった山路家の家系 やエピソードを交えて紹介、この会場にも怒鳴られた人が多いことでしょう、と言いました。なに、正確に言えば、ほめられた人など皆無で会場には「被害者 」しかいなかったはずです。
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| 青い花、オレンジの社旗に包まれた山路さんの葬儀。 |
弔辞は整理部長として大阪からずっと一緒の松村幸夫さんと経済部長だった島谷泰彦さんが捧げました。松村さんは愛山ゆかりの地、信州・長野で開かれた 新聞大会に一緒に出席したとき作家の井出孫六が講師として「郷土の信濃毎日新聞は二人の偉人によって100年以上の歴史を築きあげました。一人は山路 愛山、もう一人は小林一茶の発掘で信毎の紙価を高めた束松露香(つかまつ・ろこう)です。その二人の長男、久三郎氏と次女、菊枝さんが結婚して生まれ たジャーナリスト三代目がこの会場のどこかに・・・」と話はじめたとたん、横でもじもじはじめた山路さんの姿を紹介しました。
島谷さんは当時4歳の長女が交通事故に遭い重篤状態になったとき、傍に付き添い奇跡は起こる、という話をはじめた山路さんの意外な側面を伝えました。 奇跡は起こりました。洗面所での立ち話ではそのお嬢さんは国際結婚していま44歳。孫は容姿から「クレオパトラ」といわれているそうです。
写真上は式場の祭壇の様子です。時節柄青いアジサイに見えるでしょうが、白いカーネーションに青い色を吸い上げさせるという最新技術で作り出されたも のです。ブルーのシャツしか着なかった山路さんのために家族の強いこだわりで実現しました。棺は夕刊フジの社旗で覆われました。これはOBのたっての願 いからです。亡くなった日に枕頭に集まった何人かで山路さん愛飲の焼酎(その名も「久三郎」)を一本空けてしまいました。そのとき、我々にとってはいつまでたっても山路さん は夕刊フジが別会社だったときの「山路社長」のままだというのでこれで送りたいということになりました。
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| 式場にはなつかしいスナップがパネルで展示された。 |
告別式は関西からの人を多く見受けました。前夜のカミナリについで大阪社会部長時代のカミナリの思い出が積み重なりました。以前の山路家の葬儀で司馬 遼太郎からの弔電が間に合わず、こんなものだろうと大胆にも”代筆”した当時の大阪産経の文化部長、端山文昭さん。この日は司馬遼財団から、「山路さんこそ本物の新聞記者だと つねづね言っておりました」と本物の弔電が届いていました。「また東京は三浦(ロス疑惑)でっか。大阪はこういうはっきりせんもんはあきまへんのや。 こっちは山口組と一和会のドンパチでいきまっさ」と言ってのけた当時の大阪夕刊フジの編集責任者だった辻本幸夫さん。大阪でのヤーさんはもっと怖かったという点で一致していました。
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| 夕刊フジOBのおれんじ会からも献花しました |
告別式で「ジイジ!」と呼びかけて感動を呼んだ孫の悠生君(はるき。小1)が骨上げを手伝いました。あの山路さんをして「目に入れても痛くない」可愛がり ようだったといいます。悠生くんは以前、「ジイジ」に「僕は大きくなったら新聞記者になる!」と告げて、「ジイジ」を泣くほど感激させたそうです。自 室の机ひきだしに孫が大すきなチョコレートを山ほど用意して、食事もできないほど次ぎから次へと食べさせ、家族は呆れかつ困ったといいます。 世間とまったく同じ好々爺ぶりでした。
朝(あした)には紅顔ありて夕べには白骨となる 。なんともいえない大きな寂寥感に包まれて横浜南部斎場を後にしました。
◆ ◆ ◆
この項を書き上げたら、萩原正人・元カメラマンから写真が届きました。遺影の輪郭も定かでない素人写真を前に途方にくれていたところでした。山路さんに からんで 人一倍てこずらせた男ですが、さすがです。きちんと会場の雰囲気を捉えていました。すべて彼の撮影です。◇ ◇ ◇
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| 山路さんが気に入っていた1枚。夕刊フジ25周年パーティーで。 |

【追想の記】
山路さんとの出会いは地方勤務を終えて堺支局に上がってきたときです。この支局は社会部扱いで夜勤も大阪本社でし、翌日堺支局に社のクルマで出勤する というところで相棒は同期の雪山(当時は利井)隆弘です。そこの社会部長が山路さんでした。「おっさんがどもりはじめたら逃げろ」と教えられました。 「ど、ど、ど‥・」とはじまると「どアホ」か「どついたろか」と来るのですが、雪山は2つめの「ど」くらいで「ほな、ちょっと行ってきまっさ」とトンズ ラし、結語の部分まで逃げ損なっているのが私でした。
雪山は上司も「おっさん」呼ばわりする異能の男で、編集局長は永田照海、般若の照です。面相も恐ろしいし言動も怖いのですが、自宅は堺支局管内でした。 堺支局に2人でいた夜遅く電話が入りました。編集局長からで「えらいこっちゃ、火事や、煙突の上から炎がメラメラと上がっとる・・・」。堺は石油コン ビナートがあります。私の前任地は四日市なのでピンときました。石油コンビナートで排ガスを24時間燃やしている風景がつき物です。第一消防には何 の速報も入っていません。
雪山の応対がはすごい。「おっさん、堺に何年住んでまんねん。いまごろ気いついたんでんか。あれはフレアスタッグいいましてな、四六時中燃えてまん ねん」。編集局長が「そうか」とすごすご退散する始末です。社会部長も「おっさん」呼ばわりで、私も真似するようになりましたが、雪山のようには板に つきません。
この2人、編集局長と社会部長が夕刊フジ創刊を任されたのです。「夕刊フジの挑戦」(馬見塚達雄著)によると東京組はあやしげな試みを敬遠したから、 というのですが、下っ端はそんな事情分かりません。釜が崎担当で天王寺動物園内にある記者クラブで寝っころがっているとき笹井武久デスクに呼ばれ「ち ょっと2年ほどお江戸に行ってんか」と言われてもうかれこれ40年以上です。大阪社会部から中川朗、原口順安、雪山隆弘、宮崎健、管内の中部総局から 岡芳輝、小泉良夫、みな事情は同じでしょう。
後年、酔っ払うと「お前に目つけたのは堺で書いた原稿や」と言われました。堺の記者クラブで郊外の小学校の新築の体育館か何かの見学に行ったとき、校 内の池で女の先生が「池のコイに石を投げつけて殺すこどもがいるんです。ここは農家の子と団地の子が半々のとこですが、普段魚とりしてる農家の子はやら ないのですが、団地の子は魚は痛くないんやいいましてな。焼き魚しか見てないせいでしょうかね」と嘆いていました。
書く気はなかったのですが、社会部にもどるとめぼしいニュースがない。中川デスクが「なんか町ダネないか」と言ってるのでこの話をしたら「おもろい。 書け」となったのです。当時は教育関係のコメントは3人の女性と指定されていました。俵萌子、司馬遼太郎夫人、吉田時雄経済部長夫人、いずれも 産経で社内結婚したOGです。誰がなんとコメントしたか忘れましたが13版から社会面トップになりました。
ところが15版最終版でなにか発生ものがあって、私の「特ダネ」ははずされました。翌日これに怒ったのが山路さんです。中川デスクをつかまえて「お前 は記事の軽重がわからんのか。東京を見ろ。藤村邦苗(デスク)は最終版までこれで通してるじゃないか」とえらい剣幕です。山路さんはその時のことを言 ってるのでした。
山路さんは当時独身でした。東京に行くことになった雪山と2人呼ばれ笹井武久デスクから特命を受けました。「どうもヤーさんに女のにおいがする。相手 を割ってこい」。手がかりは社会部長席に残された磯子プリンスホテルのマッチ一箱です。
広い東京でマッチの箱一つでわかるもんか、たかをくくってほっといたのですが、雪山が割り出してきました。日吉の寮で隣同士、帰りのタクシーのなかで 「だいたい間違いないな」とまでいうのですが名前を言いません。そのころ銀座のチボリで同期の若手で飲み会を開きました。山口昌子、石川荘太郎、雪山、宮崎 、洋子(旧姓を忘れました)夫人、もうひとり誰かいました。調子に乗った私と荘太郎が「山路のバカが」というと、雪山がテーブルの下からコンコンと靴 で蹴るのです。「痛いなお前」と蹴られた2人は最後まで気づきませんでした。
その磯子プリンスホテルでの結婚式には割り出した有能な社会部員はじめ誰一人招かれませんでした。当たり前です。何を言い出すやら分からない連中を招 く愚をおかすわけがありません。ですが夫人側の招待客から衝撃のスピーチが飛び出しました。「ボク死んじゃう」とプロポーズしたというのです。
後年、飲みに連れて行かれました。たいてい売れないどっかの劇団の女優が口をしのぐためにやっているバーで、弟の洋平氏が言うように「本人はホントは 芝居をやりたかった」のでしょう。機嫌のいいとき呑み屋でこの時受けた衝撃を話し始めるとたちまち機嫌が悪くなりました。夫人相手の一世一代の大芝居だったので しょう。
機嫌を壊したときの秘策が「親子3代新聞記者」を持ち出すことでした。渋谷の東急ハンズの横の坂道に「山路愛山旧居跡」という名所札が立ってます。誰で も知ってますが、「こないだ渋谷のNHKのところを歩いていたら・・・」とやるとたちまち話に乗ってきます。単純なものです。
山路さんが結婚してすぐ秋川渓谷でバーベキュー大会を開きました。東西の寄せ集め部隊なので家族連れで懇親をはかる必要があってのことですが、ご夫婦で参加 しました。ハイキング程度なのですがこの夫婦には経験がなかったと見えて前日に本社の地下のスポーツ店で大きなリュックサックを買い込みました。あの山路さんが リュックを背負っているだけでもマンガですが、この日は国鉄ストでした。昼からしか動かないことを承知で青梅の駅に立っていたのですが、例によって山路さんの カミナリが爆発しました。「お前ら、すぐ動かせ!」。困惑した動労の組合員を前に大音声が響きました。その山路さんの背中には場違いなほど大きなリュック。 長堀敏夫カメラマンや酒井聖爾整理部長が今でも語り草にしている、理不尽な山路カミナリの一件です。
誰もが山路カミナリの経験者ですが例外があります。女性です。女性には滅法やさしく怒鳴られた人など皆無でしょう。夕刊フジ育ちに限っても山口昌子パリ 支局長、千野境子産経特別記者、久保田るり子政治部編集委員・・・みなやさしい山路さんとして心酔者ばかりです。
今回、家内が涙ながらに山路さんからの手紙を持ってきました。大事に保管していたそうで、亭主は山路さんから手紙をもらっていた事も知りませんでした。 趣味の陶芸の作品展をひらいたとき夫妻で来場いただいた御礼の片隅に当時引っ越した練馬の地が肌に合わないと書いたそうです。
「関西弁でいう”宿替え”はむつかしいものです。ここ金沢文庫は家内の実家の近所で、力関係の逆転の結果です。大阪・豊中から亡母を引き取ったときの第一 声は、『空気が違う』でした。当時幼稚園だった坊主は『パパ、ボク たち友だちを作るのがタイヘンなんだ』と云い、ともにギクリとしたものでした。夕刊フジでともに苦労した細谷洋一が昨年12月18日肺がんで入院。食欲なく つらいお見舞いでした。雪山といい、梶浦幹生といい、若い友人が先立つことは悲しいことです。”元気なのは主人と犬”に大笑いしました。健ダンナを大切 にしてください」
そのダンナが頂いた手紙には「(入社時と今の顔写真つきで定年者紹介の)社内報で健さん拝見。ご苦労さまでしたというより、報ゆること少なき社であ りました、と謝るほうが正しいでしょう」とありました。はじめての温情ある言葉で感激しました。なのに、昨年暮れの夕刊フジOBのおれんじ会の時です。 遅れてきた山路さん夫妻に「ここの席が空いてますよ」と声をかけたら「うっせい。余計なことを仕切りやがって」。これです。
現代経営学の父と呼ばれたドラッカーが云ってることですが「うまくいっている組織には、人付き合いが悪く気難しいわがままなボスが必ずいる。彼は一流の 仕事を部下に要求し、自らにも要求する。何が正しいかだけを考え、誰が正しいかを考えない。こうしたボスこそが必要だ」。まさに時代の要請だったのでしょう。
私事ですが、創刊直前のダミー版を作っている頃、今も名前を見る女優の堕胎事件の取材を担当しました。社会部記者としてハナから取材拒否することは出 来ませんので相手まで割り出し、カルテの写真もいつでも手に入るようにし、原稿も書き「このゴシップを載せるような新聞なら会社を辞める」といったら、 原稿を読み、その場でゴミ箱に放り込んでくれたのが山路さんでした。私が最後まで新聞記者としての人生をまっとうできたのは、山路昭平という理不尽で はあるが一本筋が通った編集者のおかげだと思っています。
「ど、ど、ど・・・」 どアホですか、どつくですか、ど下手ですか。笹井さんも、中川さんも、尾登さんも、雪山も先に逝ってますから彼岸でやりあ って下さいな。こっちはおかげで寂しくなりました。
(宮崎 健)
私事をたくさん書いたので署名を入れさせていただきました。

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| 産経新聞掲載の訃報 |
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| 小田孝治さん (2008.5.24 第3回おれんじ会) |
小田記者が取材で知り合ったPR会社の女性と結婚して新婚旅行中、ちょうど雫石上空で全日空機と自衛隊機が空中衝突する大事故が発生しました。三陸海岸 あたりの小島にいたのですが、電話を入れてきて、「近いので今から 現場に行きましょうか」と言ってくれました。当時は交通事情が悪く雫石に記者とカメラマンが着くまで時間がかかりました。デスク以下渡りに船とばかりに 現場行きを頼みました。この間、夫人とは別れて本隊が来るまで雑感記事を現場から送ってきてくれました。夫人とは2日ほどあとに盛岡で合流したそうです(葬儀 で夫人が喪主挨拶のなかで「心細くて、新聞記者と結婚するとはこういうことかと思いました」と当時の思い出を述べておられました)。
山路昭平御大の「一芸運動」で、記者は何か一生かけた専門分野を持て、と指導されました。岡芳輝記者の「軍事」や小田孝治記者の「歌舞伎」はその成果です が、小田”歌舞伎記者”は役者や松竹に食い込み、パンフレットに解説を書くほどでした。今、海老蔵騒ぎの最中ですが、誰しも小田記者の一喝を聞きたかったと 思うことでしょう。
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| 小田君の葬儀でお悔やみの言葉を述べる馬見塚さん |
葬儀は12月19日午前10時から横浜北部斎場で行われました。無宗教で、通夜なし葬儀のみ。先輩1人と産経・夕刊フジを代表して馬見塚さんがお悔やみの言葉 を述べたあと全員で菊の花の小枝を献花するという形で行われました。祭壇には歌舞伎界の東西の大御所ほぼすべてと言った人たちからと、どこでの関係がわかりま せんが小泉純一郎元首相などの花輪が並び、故人の交際範囲の広さを物語っていました。
山路御大、住田社長ら産経と夕刊フジの現役・OBの顔をたくさん見かけ、中には新聞社時代以来初めて会う人も多く、小田君のおかげでさながら新旧の交流会とい ったおもむきがありました。二人の子息も立派に成人され、元気にはしゃぐお孫さんも数人見かけました。子息の一人は鹿児島の南日本新聞の記者と聞きます。 親父の背中を見て新聞記者の道を歩まれたのでしょう。長寿社会の今では69歳はやや心残りではありますが、幸せな小田君の人生だったと確信した一日でした。
<葬儀の前後、交流のあった方々から思い出の記が寄せられましたので、以下に紹介します。
◆ ◆ ◆
当時の「若手」で産経抄を書いている田中規雄論説委員に電話したところ「小田さんのためなら何なりと」と快諾してくれました。
小田さんへ小田さんのお見舞いに、千野さんと永井という小田さんが高く評価していた、現在雑誌正論の編集部にいる女性記者と、病院にうかがったのは、去年の11月のな かばでした。そのとき小田さんは手術の直後で、会話ができない状態でした。それでも、われわれのことは認識してくれて、強い力で手を握りしめてくれたもので す。奥様との会話も筆談でした。そのとき、どうしてもこの字が読めないのです、といって奥様から示されたメモを見て、「これ、海老蔵と書いてあるんじゃない ですか」と言ったのは、歌舞伎通でもある永井でした。ちょうど、その日は市川海老蔵の婚約記者会見が行われていました。テレビ中継を見た小田さんは、何か祝 福の言葉をかけたかったのかもしれません。その海老蔵の暴行事件が、連日世間を騒がしているのは、皆さんご存じの通りです。事件についてコラムを書きながら 、小田さんの感想を聞いてみたいな、と思っていた矢先、思いがけない知らせを受け取りました。
小田さんとの出会いは、25年以上前の昔に遡ります。私は夕刊フジの報道部から、企画部への異動を命じられ、新しい職場の先輩が、小田さんでした。報道部 では、事件取材から芸能人のインタビューまで、それなりに充実した生活でした。企画部の仕事は、同じ記者の仕事とはいえ、広告記事の制作です。楽しそうに飛 び回っている同期入社の仲間たちの姿を見るに付け、味わった挫折感は、今の言葉でいえば、「負け組」の気分といっていいでしょう。そんなふてくされたように 私を、小田さんはいやな顔ひとつ見せず、接してくれました。毎日昼ご飯に誘ってくれて、本や芝居の話をたくさんしてくれました。小田さんは、企画部の仕事を てきぱきとこなすと、そのころ本業だった、歌舞伎をはじめ、演劇界のために走り回っていました。市川団十郎、玉三郎といった、劇界を代表する役者たちの友人 というより、相談役を務めていることも、まもなく知りました。小田さんの仕事ぶりを見ていると、ふてくされている自分がひどくこっけいに思えてきました。記 者にとって、どこに所属しているかなんてどうでもいいことだ。仕事は自分で見つけてくるものだ。小田さんは説教ひとつすることなく、この世界で生きていく上 で一番大事なことを教えてくれたのです。
私どもの結婚の媒酌人も、小田さんご夫妻にお願いしました。結婚式での小田さんのあいさつは前代未聞のものでした。主役のはずの私を徹底的にこき下ろすの です。それも、慌て者とか、おちょここいとか、そんな生やさしい悪口ではないんです。自分のことしか考えてないとか、わがままとか、冷たいとか、まあ、当 たっているんですがほとんど人格否定です。そんな奴ですが、結婚できたのは皆様のおかげ、これからよろしく、という趣旨でした。こんなこと言ってくれる人 は小田さんしかいない。私にとって、唯一無比の人でした。
小田さんの人脈のすごさはみなさんもよくご存じでしょう。さきほどのべた歌舞伎の名優から、小泉純一郎元首相まで、まさしく綺羅、星のごとくです。こんなこ ともありました。昨年、「おくり人」という映画が、大きな話題となりましたね。同時に、納棺夫という仕事を世間に紹介した原作本も注目されました。著者がど れほどユニークな人物なのか、小田さんから聞かされたのは、10年以上前のことです。小田さんのネットワークはここ数年、歌舞伎の枠をこえ、木工の名工、森 を守る人たち、岐阜県加子母村の住民とますます広がりを見せていました。執筆中の本も私が知っているだけで、2冊ほどあります。病気が邪魔をしなかったら、 生涯一記者の小田さんの集大成をまもなく目にすることができたはずです。
今年の4月ごろでしたか、自宅にお電話を差し上げると、奥様から退院されたとうかがい、おじゃましましたね。奥様が車いすの下敷きになり、2人で身動きで きなくなって、近所の友人夫妻に救出されたエピソードには、大笑いしました。小田さんは助け出されたとき、「あんこう鍋が食べたい」とつぶやいたとか。友 人夫妻は早速、魚市場に急行してくれたそうです。小田さんの応援団の一人から入院中、スナップ写真に一言を添えた写真絵手紙とも呼ぶべきはがきが毎日届いて いました。それを貼り付けたアルバムを見せていただき、つくづく友達に恵まれた人生はうらやましいと思ったものでした。もう大丈夫と安心したものだから、あ れからご機嫌伺うこともありませんでした。あれほど受けた恩の何百分の一も返すことができないうちに、小田さんは逝ってしまわれた。今はただ呆然とするばか りです。
2010年12月17日 田中規雄
◆ ◆ ◆
小田君からは一回り上の先輩記者にあたり、上司でもあった馬見塚達雄氏も一文を寄せてくれました。病気を知ったいきさつは本文にもありますが、今回訃報を知って かけつけ、納棺も手伝い葬儀の段取りもつけ、当日は霊前で弔辞も述べることになりましたが、時間が限られていて言い尽くせないので、このサイトで追悼文をささげることにしたものです。
無念!生き急ぎすぎた小田くん昨年秋、小田くんが自宅で脳腫瘍を発症して倒れ、救急車で緊急入院、手術と知ったのは、11月7日に横浜で開く夕刊フジOBの懇親会(おれんじ有志会)への 出欠を確認するため自宅へ電話したところ、典子夫人から「実は…」と聞かされた時だった。まさに青天の霹靂、日ごろ健康そのものでアウトドア志向。いつ電話 やメールをしても、大袈裟にいえば一年のうち半分近くはやれ屋久島だ、やれ飛騨の山中だ、あるときはヒマラヤのトレッキングに出かけているといった具合で返事 が2,3週後になることはザラ、国内外を飛び回っていた彼が、こともあろうにあの年でダウンとは…。
それでも、今年の春に退院、自宅療養、リハビリに入ったころは、ずいぶん快方に向かい、僕も電話で短い話をしたことがあった。夫人の話では歌舞伎座にも車 椅子で出かけて何人かの役者に会い、熱心に観劇して、メモなどをとっていたという。しかし、夏ごろから再び病状が悪化、ついに帰らぬ人となった。生前のあの 人なつっこい笑顔、時に真剣なまなざし、世相を憂う口吻などを思い出すたびに、無念でならない。ただ今からふりかえると、新聞記者時代はもとより、新聞社を卒 業してからも、小田くんは何事にもあまりに真摯に、真正面から向き合い、「現場主義」「対人重視」で生き急いだ感がしてならない。親しかった後輩の某君などは 時々、「小田さん、そんなに方々、年中出かけるのはセーブして、たまにはノンビリしたらどうですか」と冷やかし半分に忠告していたそうだ。
その行動力から付き合いが広く、人脈も驚くほど豊富だから、彼の人柄や最近のエピソードなどは、夕刊フジと産経文化部時代に仕事上で、OBになってから 「おれんじ会」の幹事としての接触が主だった僕などより、よほど親しくして詳しい方も多いと思われるが、ここには2004年に出版した拙著『夕刊フジの挑戦』 で小田くんのことをとりあげたくだりを紹介して追悼に変えたい。
歌舞伎にのめりこんだ小田≪純情な若手もいた。「ぴいぷる展」(注・創刊2年目の1970年に銀座・三越で開いた夕刊フジ主催の写真・インタビュー展)のパンフレットにこんなエピソ ードが書かれている。男なのか女なのか―丸山(現・美輪)明宏さんを取材したのは夕刊フジ編集部のなかでも最年少、独身のX君でした。一度会い、二度会い…でもどうしても書け ません。丸山さんの忙しいスケジュールの合間をぬって、深夜三度目のインタビュー。「あなたがつかめないので」と詫びながら、取材しました。分かれ際に丸山 さん、妖しくほほえんで、「あなたってホントに純情なのね」。明け方までかかって「ひと・ぴいぷる」を書き上げたX君、その夜から高熱を発して寝込みました。
この「X君」とは小田孝冶である。後年、産経新聞に移ってから歌舞伎では屈指の専門記者になり、定年後には大学講師として若者に伝統芸能を教える「先生」に なった小田だが、当時はまだ神戸支局からあがってきたばかりで、先輩たちからは「小田坊」とよばれていた。のちには若手歌舞伎役者の相談相手になったり、イ ンタビューの受け応えがなっていない役者に心得を説教するようになった小田に、こんな純情な時期があったとは信じられない思いである。(中略)
歌舞伎にのめりこむようになったのは、1972年2月、二代目尾上松緑のぴいぷる取材がきっかけだったと本人が回顧している。味わいつくせないほど濃かっ た本筋の芸談のあと、煙管、煙草盆、手ぬぐい、火鉢など大事にしている小道具を取り出して、その一つ一つの手技を、若い新聞記者相手に熱心にしてくれる歌 舞伎界の大御所に、小田はすっかり参ってしまったのだった。
「とおりいっぺんのインタビューではなく、歌舞伎の奥深さをしろうとのぼくにもわかってもらおうとしたんですね。このあとすぐ、松緑さんは人間国宝になっ たので、なおのこと強い印象が残った」と小田。それからは時間があるたびに歌舞伎座に足を運ぶようになって、ついに専門記者の道にはいった≫(『夕刊フジ の挑戦』148〜149ページ)
2010年12月18日 馬見塚達雄
◆ ◆ ◆
葬儀の直後、「夕刊フジOBのページ」の掲示板に、教えていた大学の小田ゼミの学生氏から思い出の投稿がありました。こちらのコーナーにふさわしいので 転載して紹介します。
先生の告別式を終えて…
こんにちは。私は、西武文理大学4期生の佐野隆雄と申します。学生時代は、小田孝治先生のゼミを専攻し生き方、価値観、そして人とのふれあいを多くを学び私 の心の師でした。
そんな先生の訃報を伺ったのは先週の水曜日のことです。正直、信じられませんでした。あんだけ元気で、やさしくて、僕より握力が強くて、持病をもってるの に温泉に浸かって笑っていられる。そんな強い人がなぜ??と疑ってしまいました。
私が、最後に先生のお元気な姿を拝見したのは4年前の加子母村での事です。その時は、急に休みが取れたので先生に「加子母村に行く」とは告げず行きました。 いざ着いてみると、どこに行っていいかわからない。右も左もわからない。そこで、先生に電話をかけました。朝、八時過ぎだったと思います。
「先生、今加子母村に居るんですがどこに行けばいいでしょうか??」
そこで電話が切れてしまったのです。
「佐野君かい?いま加子母村にいるのか?どこにいる?」
「今は加子母村の道の駅にいます。」
「よし、わかった。いまからそっちに行くよ。」
「え?」
「そっちにいくよ」っと言われても、まさか横浜から来るわけがないとおもっていたら50M先から先生の姿が近づいてくるんです。
その時の先生は、太陽の光をいっぱい浴び、着ているTシャツは汗でびしょびしょ。朝8時ですよ。ジョギングしてきたのかと思いました。
「佐野君久しぶり。加子母の山はいいね。朝一で山に入っていたんだ」
「先生、凄いですよ。まさか加子母村で再会できるなんて」
「そうだね。まぁそんな事よりこの辺りで美味しいコーヒーが飲める所は知らないか??」
先生らしいです。そんな先生と今日でお別れ。
本当にお疲れ様でした。
本当に悲しいです。
また、加子母村でお会いしたような再会を夢見てこれからの人生歩んで参ります。
安らかにお眠り下さい。
西武文理大学4期生 小田ゼミ 佐野隆雄
◆ ◆ ◆
山口昌子パリ支局長からは、葬儀のあった夜届きました。
「小田さんの訃報、ショックでした。ご病気だったことも全然知らなかったので。野津さんから知らせがあり、外信部に頼んで弔電を打たせていただきました。
夕刊フジサイトにも思い出を書かせていただこうとしたのですが、なぜか、文字化けしてしまいますので、ここに書かせていただきます。」
2001年9月に思いもかけずに、フランスから勲章を頂いたとき、当時のグールドモンターニュ駐日大使が非常に喜んでくださり、東京のフランス大使館で叙勲式 と約60人ほど招待してレセプションを開いてくださいました。そのお礼に歌舞伎座に招待しようと急に思い付いたのですが、急遽帰国したこともあり、もう良い 席がありませんでした。
それで、小田さんにお願いして切符を取っていただきました。小田さんも一緒に来てくださり、大使夫妻、そして小田さんと私の4人で幕間にお昼も食べました。大 使は語学の天才で、着任して2年ぐらいでしたが、日本語の会話に不自由しなかったので、小田さんに歌舞伎のことを熱心に質問していました。小田さんの明快で 詳細な説明に非常に感激していました。また、小田さんが楽屋も案内してくださり、当時の辰之助のメーキャップを見学することもできました。
大使は現在、駐英大使を務めていますが、8月末の慣例の大使会議のエリゼ宮のレセプションでお目にかかると、歌舞伎の思い出をいつも、楽しそうに話します。
そのずっと前に奥様とパリにも来てくださり、良き夫ぶりも見せ付けてくださいました。パリ・オペラ座での歌舞伎座公演の時には、「行きたい」とおっしゃって いたので、再会を楽しみにしていたのですが。帰国したら大好きな歌舞伎をまた小田さんと一緒に観劇するのを楽しみにしていたので本当に残念です。実は恥も外 聞もなく海老蔵のファンクラブに入ろうと思っているのですが、真面目な小田さんは眉を顰めて反対するかもしれませんね。
改めて感謝を込めてご冥福をお祈りします。
山口 昌子

毎年恒例の「おれんじ会」、今回は「おれんじ気まま会」と題して2010年10月23日(土)午後3時から横浜駅西口の居酒屋「鳥良」で開かれました。会場定から案内、出欠まで馬見塚”ひとり幹事”の骨折りでした。
集まったのは山路昭平御大以下、榎本正男、大見信昭、大山宰治、今田禎嘉、嵯峨厚生、伊藤元彦、野呂瀬務、田代実、佐藤実、志波吉勝、松村幸夫、馬見塚達雄、 西出義宗、小笠原満、三好英輔、風間正人、阿部耕三、小泉良夫、加藤雅已、会田茂、萩原正人、宮崎健の23人。
いつもながら抜群の出席率を誇る競馬班の今田氏から翌日に迫った菊花賞の予想。軸馬のナントカから3頭を流し買いという「大穴」の教授をうけたあと、馬見塚”幹事長” からいつも姿を見せる原口氏が体調不良、細野氏が姉の介護、酒井氏が会合の重複、島谷氏が歩行困難などにより欠席という報告のあと、阿部耕三氏が「定年を迎え 、嘱託として運動部にいる」旨の近況報告。早この世代も定年かと時の過ぎ行く早さに驚いたあと、夕刊フジで最初に独自採用した「夕刊フジプロパー」組で現在は産経の横浜総局長 をしている風間正人氏が挨拶しました。
この世代は別府育郎論説委員、勅使川原豊文化部長、産経抄を担当する田中規雄論説委員など本紙を支える顔ぶれがいて夕刊フジが「人材供給源」になっていることを証明しています。 創刊当初から人を育てることに力を入れてきた成果がいま華開いている感じです。
翌日萩原カメラマンから届いた写真などで当日の光景を紹介します。
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| 競馬班の皆さん | 営業と整理部のOB | 山路さんほか |
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| 小泉、加藤、会田、萩原の各氏 | 加藤、西出、宮崎、会田の各氏 | 競馬班 |
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| 佐藤、志波、阿部の各氏 | 松村、野呂瀬、田代の各氏 | 山路さんと小泉氏 |
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| おれんじ気まま会 撮影者の三好さんほか2,3人ぬけているものの居酒屋のビル前の西口前でほぼ全員 の集合写真。 (後列左から)馬見塚、嵯峨、伊藤、 山路、阿部、小泉、今田、田代、志波、加藤、榎本、小笠原、会田 (前左から)野呂瀬、大山、西出、萩原、宮崎、佐藤実、風間(敬称略) |

山口昌子産経新聞パリ支局長が表記のような新著を出版しました。「出版元はあまり宣伝をしないところな上、日本の本屋では歴史書として奥深く陳列されている だけでこのままでは本屋がすぐ返品してしまうのではないかと心配です。夕刊フジの皆様にもよろしく紹介してください」ということです。宮崎の個人ブログ「Mt.8.Blog」 で紹介した文章ですが、こちらにも転載します。
◇ ◇ ◇
「ドゴールのいるフランス」(山口昌子著) 2010/06/09 水曜日 - 11:42:13 by みやざき暗愚の宰相でも国は滅びないが、国家観がないリーダーは国を滅ぼす。そこで「戦後最低の首相を持った日本の不幸」を4回にわたってこのブログで書いた 。家内は鳩山夫人とは神戸の女学校の同級生で政界に出る前から旧知の間柄なので、批判は書きにくかったが、最終回の4回目をアップした翌日鳩山内閣は 崩壊した。
どうして日本は国家観も軍事の知識もないリーダーを持ってしまったのかと考えていたところに、8日夕に山口昌子産経パリ支局長から電話をもらった。山口 さんは新聞記者時代の同僚であり、2010年フランス国家功労賞オフィシエ章の叙勲の写真をこのブログでも掲載したばかりだ。
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| 「ドゴールのいるフランス」 |
「フランスにはドゴールがいるから羨ましい」といった米人記者の言葉が表題の由来のようだが、フランスには、政治家の基準というか指導者のお手本とし て、厳然としてドゴール将軍が常に、いる。
山口昌子さんによると今週号の週刊誌「ル・ポワン」はドゴール将軍が表紙だ。第二次大戦中の1940年6月18日にドゴールが亡命先のロンドンのB BCスタジオから対独レジスタンスの「呼びかけ」の放送を行ってから今年で70周年だからだ。サルコジ大統領は当日、ロンドンに行って70周年記念式 典に参加するそうだ。いまだに国民の敬愛を集めている。
ドゴール将軍の「呼びかけ」がなかったら、フランスは戦勝國にならなかったし、従って、戦勝4カ国を基準に構成した国連5常任理事国にもならなかった 。アルジェリア戦争が内戦にならなかったのもドゴール将軍が再登場した結果だ。つまり、ドゴール将軍は2度、フランスを救った文字通り、救国の士なわ けで、いまやフランスでは左右の党派を超えて、最も尊敬されている政治家だ。
ドゴールはまた巨額の出費を伴う超音速旅客機コンコルドの開発の強力な推進者でもあった。最先端技術の裾野の広さが国力につながることを知っていたか らだ。10年前シャルル・ドゴール空港に墜落したことや経済性から消えたが技術は残った。それに引き換え日本はどうか。アラブ首長国連邦の新しい原 子力発電所の建設の権利を韓国が大統領自らの売りこみで獲得したが、その間日本の首相は「民間まかせ」と手をこまねいていただけだ。日本もドゴー ルのいるフランスがうらやましい。

「人間 井深大」(島谷泰彦著)が17年ぶりに文庫版で登場(2010.3.19)
夕刊フジOBの島谷泰彦さんが17年前に著した「人間 井深大」(講談社)は、SONY創業者の足跡を追ったものとしては評伝の決定版といわれる本ですが、この ほど17年ぶりに文庫版として登場しました。
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| 文庫版になった「人間 井深大」 |
初版のあとがきに島谷さんが書いていますが、依頼されたとき「書くのはあなたしかいません」と言われたそうです。このひとことが体を熱くさせました。島谷さん の手紙には「17年前の作品が文庫になるというのも、現在の不況の時代、先達に学ぼうという時代の流れのおかげでしょうか」とあります。
文庫版の「解説」には無類の読書家と知られるタレント、司会者として活躍する児玉清さんが「著者の徹底した取材力で井深さんの素敵な人品骨柄が圧倒的なリアリ ティーで読者の心に諄々としてしみこんでくる」と書いています。「人間 井深大」(講談社文庫、本体695円)。

新聞界からあまりいい話は聞こえてこないなか、山口昌子パリ支局長が仏政府から勲章を贈られたという”いいニュース”です。、 1月29日の産経新聞に次のような記事が掲載されました。
本社パリ支局長にオフィシエ章 邦人ジャーナリスト初フランス政府は27日、国家に著しく貢献した者に与える国家功労勲章のオフィシエ章を、産経新聞パリ支局の山口昌子支局長に授与した。日本人ジャーナリストで同勲章のオフィシエ章を叙勲されるのは初めて。1990年支局長として渡仏。以来約20年にわたり、ミッテラン、シラク、サルコジ各大統領時代のフランスを取材し、日仏の相互理解に果たした役割が認められた
昌子さんにオフィシエ章 同省のベルナール・バルロ報道官はさまざまな分野の報道で「日本人読者のフランスへの理解を深めるのに尽くした」ことを授与理由に挙げた。式にはロス、エヌキン両元駐日大使はじめめモイジ仏国際関係研究所特別顧問、ヴァイスパリ政治学院教授、フォール元パリ警視庁長官、山本忠通ユネスコ日本政府代表部大使、中川正輝パリ日本文化館館長、日仏の記者ら多数が出席した。
山口記者は1994年度ボーン・上田記念国際記者賞、2001?年仏国家功労勲章「シュバリエ」(5級)を受賞。著書に「シャネルの真実」「大国フランスの不思議」「エリゼ宮物語」「フランスよ、どこへ行く」など。
多くの夕刊フジOBがリタイアしている中で、昌子さんだけは「余人をもって替えがたい」と支局長生活20年。その前の支局員時代や、夕刊フジ報道部から仏政府の奨学生として留学していた時代を含めると人生の大半をパリに暮らしていることになります。たびたび一時帰国の歓迎会も開かれましたがいつも夕刊フジに育てられたことを感謝し誇らしく語っていました。夕刊フジの華に乾杯。
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| 外務省での叙勲セレモニー |
3月に入って、昌子さんとメールのやり取りをする機会があり、叙勲のセレモニーの写真が届きましたので紹介します。普段は公開していないそうですが豪華な 仏外務省の広間の様子が分かるので大きなサイズで見られるようにしました。(クリックで原寸1280ピクセルに)
昌子さんの夕刊フジ報道部時代のエピソードやサイトの管理人とのツーショットという特ダネ写真は下記のブログに掲載しました。
http://xsvx1006409.xsrv.jp/miyazaki/mt8/wp-trackback.php?p=732

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| 野毛の「叶屋」に集まった面々。(クリックで大きなサイズに) |
2009年は夕刊フジ創刊40周年の年ですが、諸般の事情によりパーティーなどはありませんでした。なんとなくしまりがないので、では、有志だけでも集まろうか 、と馬見塚さんの発案で、手ぢかに電話で連絡が付く仲間に声をかけ11月7日(土)午後3時、横浜・桜木町駅前の野毛仲通りにある「叶屋」という飲み屋で 「臨時おれんじ会分会」という形で12人が集まりました。
席上、昨年9月25日、「アオキュー」こと青木久さんが亡くなっていたことが最近社会部OB会から馬見塚さんに伝えられたとのこと。同期の福井惇さんが今年になって 知ったものの、そのうち偲ぶ会でも開くか、となんとなくのびのびになっていたのだとか。法務省に強く夕刊フジ編集局にあった、テレビまできちんと入るよう収納 設計された壁一面にわたる木製の本棚はアオキューさんの口利きでした。その他靴から石鹸まで刑務所製の製品にお世話になった 方も多いでしょうが、みんなアオキューさんの世話でCAPIC(矯正協会刑務作業協力事業部)から来たものです。釣りが趣味で三浦半島でボートを出してもら ったりした方も多いでしょう。
金田浩一呂氏は腎がんと闘病中(本人のメールでは「闘病などと勇ましいことはしません。共存中」とか)。小田孝治氏が最近、脳腫瘍の手術を受けて横浜の病院に入院中とかの報告が ありました。野毛なら一人で行ける、とやってきた御大、山路さんも座るのが苦手で椅子の用意がいるなどそれぞれの加齢ぶりでした。丸山さんは85歳になるというものの全員に 持参の千葉産のピーナッツをプレゼントして大変元気でした。原口順安センセイは千葉県・勝浦に居を移したそうです。酒井法子にならってシャブでもやるのかと聞いたら 「相変わらず腰は痛いがそのほかは元気」とのことです。旭市に隠遁している細野氏はすっかり太ったのに驚きましたが「あんたがひさしぶりなだけで、ここ何年変わっていない」そうです。 千葉県の3人の元気さが目立ちましたが、房総はきっと空気がいいのでしょう。
写真は居合わせた「カメラマン」という方にシャッターを押してもらった「叶屋」2Fのスナップ。(前列左から)松村幸夫、丸山正一、山路昭平、島谷康彦、細野憲昭、志波吉勝、 原口順安(後列左から)宮崎健、馬見塚達雄、小笠原満、酒井聖爾、本光繁幸 の各氏。
明けましておめでとうございます
今年も新春二日山路邸にOBが集いました。以下は馬見塚さんの報告です。(マミさんからは翌日投稿がありましたが管理人不在でアップが遅れました)
口だけは達者です
正月2日、横浜の山路御大邸に、恒例のメンバーが集まって恒例のオダをあげました。最長老の丸さん、新聞に情熱いっぱいの島谷さん、「オレンジ色
の憎いやつ」のレイアウトを確立した松村さん、ヘンなことばかりやっていた気がする小生、それに今回は「産経志塾」の塾頭というスゴい肩書の千
野さんも飛び入り参加、山路さんの岡山放送時代の秘書だった山崎さん(現在は東京勤務)、山路夫妻という顔ぶれでした。昨年参加した別府君からは
前日に電話があり、「実家(たしか奄美大島?)の父が具合が悪いので帰郷していて今年は参加できません。皆さんによろしく」とのことでした。
ご承知の方も多いでしょうが、夕刊フジは目下大ピンチ、話は当然その話題になりましたが、逆襲のやり方はまだまだ残っている。「岡目八目」かもし れないが、現場を離れているOBだから見えることが多い。なぜその知恵を活用しないのかと、口だけは達者なわれら後期高齢者でありました。 今年は創刊40周年、一度死んだつもりで、再スタートも悪くないかもしれませんね。
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| 2009年正月の山路さんとOB (クリックで大きなサイズに) |
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| 椅子に座っている女性は岡山放送の山崎能婦子さん (クリックで大きなサイズに) |
宮ケンです。意外な出会いを報告します。
九州・唐津出身の叔母が97歳で亡くなり品川で6月11、12日に通夜、告別式が行われました。叔母は宮崎家から嫁に行ったので、4代目の総領である
私が出席しました。一族の宗派は禅宗なので臨済宗妙心寺派の僧侶が読経、法話など一切を仕切りました。
ところがこの僧侶というのが変わっていて、「4月に脳梗塞で逝きかけたが戻ってきまして、これまで葬式5件こなしました。まだ少し後遺症が残っていて読経にお聴 き苦しいところがありますがお許しください」というあたりはいいとして、例の「喝!」というのが禅宗の特徴なのにこれがなく、鉦(かね)の中を指揮棒のような ので軽く打ち鳴らし、ジャズのドラムのようにビートを利かしながらお経を読むのです。
斎場で最後のお経を上げて遺族に見送られてタクシーに乗ろうとするところで声をかけました。「導師さんはもしかして夕刊フジにいませんでしたか」。びっくりして こちらの顔を見て「ヒエー、宮さん!最後の最後に声をかけるとは人が悪い」とさんざ握手攻めにしたあと、逃げるようにタクシーに飛び込みました。
そう夕刊フジで馬見塚キャップのもと、パチンコ必勝法を連載、「宮さんだけに絶対儲かる台を教えるから」と新宿に案内して、ボロ負けさせた、あの牛次郎センセイ だったのです。池袋のジャズ喫茶で彼が仲間と演奏している席に明け方までいたことがあり、読経しながら鉦の中をかき回しリズムを取る姿にピンときたのです。前 日の通夜でも似た人がいるものだと思ったけれど、彼は伊豆のほうにいると聞いていたので、品川にいるはずないと思い声をかけませんでした。
喪主が渡された名刺には「臨済宗妙心寺派願行寺、牛込覚心」とありました。夕刊フジのあと敵のゲンダイでマンガ「やる気まんまん」の原作者としてヒットさせ、 「包丁人味平」「釘師サブやん」の作者はいつしか伊東市・伊豆高原で寺を開き管長兼住職となっていたのです。
叔母が牛込住職からもらった戒名には「流石」「幸」などきれいな文字がちりばめられ、なかなかもらえないはずの「大姉」までサービスされていました。非の打ち 所のないお坊さんで叔母も極楽浄土に往生したことと思います。葬式のこととて誰一人としてお寺さんの写真を撮っておりませんでしたので、牛次郎氏の勇姿は残っ ておりませんです。喝! (宮崎 健)

「第3回おれんじ会」は2008年5月24日(土)午後2時から古巣の大手町サンケイプラザ304号で開かれました。
サンケイパーラーしか知らない人もはじめて姿を見せていただき、夕刊フジや産経にいる現役も参加して総員57人にもなりました。
紅一点、島村理麻さん(今は”敵陣”の講談社)や九州や高崎、栃木・小山の常連さんなど、過去3回で最大のデレゲーションで、会場あちこちで昔話に花が咲きました。
馬見塚会長代行(マミさんの音頭とりではじまったのですが、会長は山路さんだろうが、と
いう声もあり、結局ワケわからなくなり、会長は後日決定予定)が、「午後5時までの3時間も場がもたないぞ」、と心配してビンゴなどを行いましたが、なくても大丈
夫なくらい盛り上がりました。
豪華景品を提供していただいたOBはじめ編集・営業の現役諸兄ありがとうございました。
下の集合写真にはシャッターを押した三好英輔氏の姿がありません。写真部からも懐かしい顔ぶれが集まりましたが、みな手ぶら。カメラマン根性は三好氏一人で守られました。 寄る年波でカメラが重くなったのでしょうか。後日の糾弾に任せたいと思います。
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| 第3回おれんじ会 集合写真 (クリックで大きなサイズに) |
萩原正人氏 近況です(2008.5.15)
ご無沙汰していますが皆様お元気にお過ごしのことと思います。
連休、琵琶湖畔と、四万十川を源流から河口まで走ってきました。琵琶湖は新幹線・米原で下車、びわ湖畔を京都まで走りました。
1週間で総走行距離は500キロちかく、しかも18インチの小径車でさすがに疲れましたが、新緑と清流のコントラスト素晴らしかったです。
何点か写真を見てください。おれんじ会を楽しみにしています。(萩原 正人)

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| 琵琶湖畔 | 四万十川の源流だそうです |
平成20年の正月2日午後、今年も横浜の山路邸に昔のメンバーが年賀に集まりました。最長老の丸山正一さんはじめ、馬見塚、島谷、松村、生原の諸氏と 遅くなってかけつけた別府育郎・現夕刊フジ編集局長の6人。山路さんは15日に検査入院を控えていましたが結構酒は飲んでいたそうです。
話題はもっぱらヒトのウワサ(おおむね悪口)と某新聞への批判。写真を見ても御大はじめ皆さん、体力の衰えを隠せませんが、あいかわらず口だけは達者 でこの場にいない連中もそうとうクサされたようです(推測)。
なお、掲示板にあるように大貫、井出両氏の訃報がこの場にもたらされました。せめて生きている連中だけでも「おれんじ会」をやろうということになり、 日時、場所は未定ですが、陽気のよい時期に、今回は都内にしようかというあたりまできまったようです。
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| 2008年正月の山路さんと長老 (クリックで大きなサイズに) |
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| 別府育郎夕刊フジ編集局長が入っただけ (クリックで大きなサイズに) |
平成19年(2007)はかつてない多くの夕刊フジの戦友が鬼籍に入りました。
松沢勲氏(3/3)
植木賢氏(3/30)
豊平三郎氏(5/12)
森博氏(9/20)
大貫昇氏(年末)
井出耕也氏(年末)
このほか把握できていない方もいるかもしれません。小さなタブロイド紙のためにともに精魂を傾けた方々のご冥福を祈ります。手元に写真がある方だけ
掲載しています。サイト上の「偲ぶ会」として原稿、写真の投稿も歓迎します。

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| 植木賢氏 |
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| 森博氏 |
大貫先輩のこと
亡くなった戦友への「偲ぶ会」をせめてこの欄でやりたいということなので、大貫昇先輩の思い出を。
在籍期間は創刊から短かったけど、実は大貫さんと僕は夕刊フジ創刊の半年以上も前に、東京社会部から二人だけ最初のダミー版を作るチームに参加さ
せられた同志だったのです。
このダミー版は評判がいまいちで、大阪社会部長だった山路さんなどは「こんなもの作れるか!」と怒って机にたたきつけたそ う(拙著「夕刊フジの挑戦」に紹介)だし、東京の販売担当常務の某氏など「こんなタブロイドが売れたらオレは銀座を逆立ちして歩いてみせる」とホザ イタそうです。
まあ、創刊から売れまくったのは、山路さんら編集首脳陣のコンセプトがしっかりしていたことと、若手に優秀な書き手がそろっていたこ とで、ちょうど中二階あたりにいた僕らはずいぶん煽られました。その中二階のキャプテン格だったのが大貫先輩で、週刊サンケイで鍛えたセンスが光っ ていました。
後年、産経外信部を経て海外ミステリーの翻訳を手がけるなど意外な一面もみせ、南氷洋の巨大な氷山が太平洋に流れ出たというSF小説は
ベストセラーにもなりました。もっとも、扶桑社の担当者にいわせると、「誤訳もけっこうあったけど原作より面白くなった」とか。これ夕刊フジ魂です
か。合掌。
(馬見塚達雄 2008/01/09)

夕刊フジはまもなく40周年を迎えます。これを機会に編集でも営業でも記念事業を企画しているようです。掲示板で馬見塚さんが予告していたように編集では その第一弾として夕刊フジ創刊の時に生まれた現役の夕刊フジ記者による創刊時メンバーのインタビューというのを11月5日掲載しました。馬見塚さんは当時34歳だったそうです。そういえば 私は何歳だったと数えるOBも多いことでしょう。ZAKZAKに掲載された記事を転載します。
40周年記念企画
(ここのクリックで紙面に飛びます)
紙面の「活字」が小さいので、見づらい方は、ブラウザ一番上にある「表示(V)」をクリックして「文字のサイズ」を最大にしてください。
予想外の多数の参加があった「第2回おれんじ会」の箱根全舷でした。総員30人!前日の役員人事で飛ばされた(?)ばかりの加藤雅巳氏、まだ健在の太田英昭氏、ご当地箱根彫刻の森美術館長だった鈴木隆敏氏はじめ遠く九州・佐賀から奥さんの披露を兼ねておいでになった村井禮仁氏など。
馬見塚さんが掲示板に「遠く九州・佐賀から村井禮仁ダンナが若くてきれいな奥方同伴のほか、群馬・高崎から大山宰治、栃木・小山から本光繁幸、千葉のはずれの旭から細野憲昭の諸氏、腰を痛めて歩行もままならぬ原口順安大兄まで出席してくれ、御大・山路昭平さんの欠席という一抹の寂しさを吹き飛ばす大盛り上がり」と書いておられるとおりです。
遠方の人ほど参加率がいいというのはどういうことでしょうか。きっと御大・山路昭平さんが欠席というのでみな伸び伸びとしたのではないかと思います。まだ写真が届くと思いますが、とりあえず馬見塚、萩原両氏から送られてきたものを掲載します。紙焼きしたい方はこのままのサイズでプリンターにかけてください。街のDPEでもやってくれます。
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| 箱根全舷全員集合(07年5月30日。馬見塚氏撮影) (クリックで大きなサイズに) |
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| 二次会での集合写真(07年5月30日。萩原氏撮影) (クリックで大きなサイズに) |
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| (左から)榎本、下條、小笠原、原口、志波の各氏の談笑。(西出氏撮影) (クリックで大きなサイズに) |
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| 相撲と野球で意気投合の大見、生原氏(西出氏撮影) (クリックで大きなサイズに) |
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| 村井夫妻と宮崎、加藤の元デスクコンビ(西出氏撮影) (クリックで大きなサイズに) |
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| 長老です。翌朝最後に出た者で美術館見学をしましたが、 雨にあい、喫茶室でまた昔話を。(07年5月31日。萩原氏撮影)) (クリックで大きなサイズに) |
参加者氏名 会田茂、生原伸久、榎本正男、太田英昭、大山宰治、大見信昭、小笠原満、小田孝治、加藤雅己、金田浩一呂、小林誠、酒井聖爾、志波吉勝、下條勝也、鈴木隆敏、田代実、土屋達彦、西出義宗、野呂瀬務、萩原正人、原口順安、細野憲昭、松村幸夫、馬見塚達雄、丸山正一、宮崎健、三好英輔、村井禮仁、同夫人、本光繁幸(敬称略)、
第2回「おれんじ会」
今年は箱根で「ゼンゲン(全舷)」!
夕刊フジの仲間の皆さん、お元気ですか? 昨年、有志で立ち上げた「おれんじ会」を今年(2007)も5月30日に下記の要領で開催します。昔懐かし
い「ゼンゲン(全舷)」スタイルです。この時期の箱根は新緑が美しく、宿泊する「彫刻の森クラブ」の温泉は今はやりの「源泉掛け流し」です。きれい
でゆったりしているので家族連れでの参加も大歓迎致します。
日 時:2007年5月30日(水)
午後3時からチェックイン
※午後2時頃から世話人が待機してます。
部屋割りは世話人にお任せあれ。希望あればどうぞ。
場 所:箱根・彫刻の森クラブ&美術館
(彫刻の森美術館の庭園内では飲食自由)
夕食のあと別室で二次会兼パーティ
(お好きな時間まで)
31日午前10時にチェックアウト。
このあと美術館見学(無料)など自由行動。
会 費:13,000円
(1泊2食、飲み放題の二次会、美術館入場料込み)
【交通の案内】
電車、クルマそれぞれの案内はここをクリックしてください。
電車はJR、小田急小田原→箱根湯本→箱根登山鉄道で彫刻の森駅から徒歩約3分。
クルマの方、クラブ前に無料で置けます。
[運賃の一例]
○東京から新幹線で小田原まで行き、箱根登山鉄道で「彫刻の森」まで。
4290円(運賃1450円、指定席2190円)。自由席だと510円安。所要時間1時間半。
○東京からJR東海道本線快速アクティー(熱海行)、新宿からJR湘南新宿ライン特別快速小田原行きなどを利用。小田原乗換え。
2100円(JR1450円、箱根登山鉄道650円)。所要時間2時間10分ほど。
○新宿から小田急特急「はこね」利用。箱根湯元乗り換え。
2370円(運賃1500円、指定席870円)。所要時間2時間24分。
日帰り希望者、翌日のゴルフ希望者、箱根観光めぐりのご要望があれば配慮しますから、返信ハガキにご記入を。
連絡先TEL
泉企画 (松村)03-3723-7964
彫刻の森クラブ(箱 根)0460−82−3993
彫刻の森美術館( 同 ) 0460-82-1161
今回は以下のOBが嫌々ながら(喜んで)世話人をしています。
小田 孝治 酒井 聖爾 志波 吉勝 島谷 泰彦 松村 幸夫
馬見塚 達雄 宮崎 健
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| 07年の長老です(クリックで大きなサイズに) |
2日、横浜の山路邸に例によってオールドOB?が年始に参上しました。 数年前の大手術以来、つねに体調が気になる山路さんですが、最近は調子がよいらしく、いたって元気です。 例によって最近の新聞に対する辛口評などなど。同感する一同で大盛り上がり。 昼間の訪問が夜にまでかかって、奥様にはまたご迷惑をかけてしまい、反省。
そこで出たのが「今年はおれんじ会、どうするの?」で、昨年の屋形船が好評だったので、 さて?とアタマをひねるところ。ぼくの思いつきで「箱根の彫刻の森ツアーなんぞは」 ということで、一応賛同は得ました。ぼくは何度か彫刻の森のPR紙をつくったこともあって、 みなさんが想像するよりは楽しい会にできるという目算もありますが、どのような日程、行程で、どの程度の予算で、などということは未定。 バスツアーなら日帰りでもOKだし、せっかく箱根まで行くのなら一泊しなければ、という人もいるでしょうし。
2月にまた松村氏をわずらわして、彼の新しいオフィスあたりで、昨年の世話人で 打ち合わせをしようということになっています。新しい幹事長に指名した小田くんにも連絡したところ、参加するそうです。
写真で私の隣に写っている若い人(といっても40代?)は山 路さんの昔の部下で岡山放送にいた方です。
(1月8日 馬見塚達雄)
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| 島谷さんの力作 |
夕刊フジの編集局に通称「呑ん兵衛横丁」があり、その住人でしたが、ある日この方に命ぜられ日銀本店に取材に行きました。日銀総裁の会見で何も知らぬ小生は「何円で介入したんですか」と質問し、居並ぶ金融記者をのけぞらせた身としては、これは業務命令ですので、及ばずながら筆をとりました。
本の帯は高杉良氏。”筆者ほど「広報」を知り尽くした人を、私は知らない”とあります。辛口評論で知られる佐高信氏は今もテレビで「私は夕刊フジで育てられた」と公言しますが、最初の日に編集局内を島谷さんに連れられて挨拶に回っていた姿を覚えています。脳死から技術革命まで各種評論で大御所になった柳田邦男氏も島谷さんとともにありました。発掘し、育てた人たちは相当な数にのぼるでしょう。
退社後、財団法人・経済広報センターが発行する広報誌に「やじうま広報塾」を連載、持論の「嘘をつかない、隠さない、逃げない」広報であれと各社トップにインタビューをしながら広報論を啓蒙してきました。好評でそのままのネーミングの「やじうま広報塾」を開塾しました。
単なる広報技術論などでないだけに「企業は株主のもの」などという論に与しません。企業は社会のためにある、企業は志ある社員をつくること、と人づくりにも力をいれてきました。今をときめく松下政経塾の塾生にも講義し、文章の添削までしたそうです。その時の塾生に自民党の高市早苗、民主党の前原誠司、玄葉光一郎、国会から横浜市長転出した中田宏などそうそうたる名前を見ることができます。みな教え子なのです。
夕刊フジの時からのスクラップや、折々に書き留めたこと、自分がした企業トップへのインタビューや雪印乳業など転落した企業の広報担当者などとの交流をもとに書かれている「実学」だけに、この本の中には面白い金言、名言、箴言が随所にちりばめられています。テーマは広報ですが、島谷さんというジャーナリストの人生観まで含めた集大成です。
馬見塚さんの肝いりで夕刊フジOBの「おれんじ会」が発足、その第一回として平成18年5月20日、品川からお台場沖まで屋形船で船出しました。こんなところに船着場があったのかと驚くような、品川駅からえんえん歩いて、船宿「大江戸」から当日正午スタート。台風1号の余波で波風ともに高く、階段や板子一枚下をまったく信頼してなくて臆病な山路さんなどどうなることかと思いましたが、運河の中を選んで走り、お台場のフジテレビ沖合いで投錨、静かな中で弁当を食べ、飲み、談笑しました。
当日の写真は下記に掲出してあります。以下のURLからご覧ください。 (ここのクリックでも飛びます)
http://www.imagegateway.net/a?i=L7wCabV3r4
写真は18枚ありますが、元写真部員などのフィルム写真も集まると思いますので後日順次掲載します。掲載写真からプリントアウトも出来ます。当日の集合写真を下記に掲載しました。写真をクリックすればさらに大きなサイズになります。
夕刊フジの『屋形船パーティ』は下記のように日時が決まりました。昨年「夕刊フジの挑戦」(馬見塚達雄著)の出版記念の集い、という ことでプレスセンターに120人が集まりましたが、そのとき、もっと頻繁にOB会を開いてほしいという声が寄せられました。馬見塚さんが、よし、それなら、と趣味の釣りからの発想で決定したものです。幹事団も結成されました。下に「おれんじ会」(会の名前をこのように決めました)としての第一回の召集案内として、馬見塚さんが筆をとった「檄文」を掲載しておきます。

すでに案内のハガキが届いていると思います。昨年の出席者名簿をもとにしていますが、この案内を見て、今回は参加したいという向きはメールまたは馬見塚、松村、酒井、島谷、宮崎の誰か連絡先がわかる人に声を掛けてください。
船ということで山路さんはじめ数人の船酔いに弱い人が二の足を踏んでいたのですが、「羽田沖の運河を100人ぐらい乗れる船でゆっくり行くだけで外海には出ない。しかも、スタピライザーのような酔い止め装置もついている新鋭船で、これでだめなら人間やめた方がいいくらい」という馬見塚さんの保証つきです。3時間程度の大航海です。
日 時:2006年5月20日(土)正午から午後3時まで
発起人 馬見塚達雄 松村幸夫 酒井聖爾 島谷泰彦 宮崎健 小田孝治
顧問 山路昭平
すでに案内状が届いていると思いますが、ご回答は4月30日までにお願いします。 問い合わせは「泉企画」(TEL 03-3518-2259)松村氏まで。
下に品川からの道順と、こんな内堀を走るということがわかるコース図を掲載しておきます。 船宿、「大江戸」のホームページもあるので、そちらもどうぞ。
「明美ちゃん基金物語」のビデオ提供(2006.1.15)
馬見塚さんから次のような申し出がありました。ご希望の方はこの欄の掲示板か直接馬見塚さんまで。
《昨年暮れにフジTVが放映した、細谷元編集局長の「明美ちゃん基金物語」は、その後、「大変に感動した」という反響が多く(産経新聞にも掲載されましたが)、ぼくのところへの年賀状にも、それにふれたものがかなりありました。とくに、ドラマではなく、二人が20年後に再会したときの感動的な実写があったのはぼくも初めて知り、思わずもらい泣きしてしまいました。
細谷夫人からも丁重な礼状をいただき、ぼくはただの傍観者だったのにと恐縮しています。しかし、見損なった人も多いらしく、正月に会った島谷氏にビデオを貸したところ、これまた大変に感動したというメールがきました。また、パリの山口さんから「是非観たい」というメールがあり、フジテレビがビデオ貸し出しにはうるさいというので、昨日ぼくの手元にあったものを送りました。
まだ手元にはもう一本あるし、島谷氏から回してもらうこともできますので、希望者にお貸ししたいと思います》

毎年夕刊フジOBのうちでも固陋いや古老が山路邸に集まっています。平成18年(2006)も元気な顔がそろったようで、馬見塚さんのメールから紹介します。
今年も2日午後、島谷氏と一緒に山路邸に年賀に行きました。常連の松村氏は風邪、酒井、生原両氏も都合が悪くて今年は欠席でしたが、例によってビール、焼酎、日本酒を3人でがぶ飲み、途中で山路さんの岡山時代の秘書・山崎さんという女性(とても感じのよい、気の回る女性で、まあ、そうでなければ山路さんのお守りはつとまらなかったでしょう)が2時間ほど参加。彼女が帰ったあと、ぼくらもそろそろ、と腰を上げかかったところへ、前触れもなくはるばる千葉県から丸山老人が参加して仕切りなおしになり、結局、10時前まで居座って、奥さんには大迷惑をかけてしまいました。反省です。
写真はお嬢さんが撮ったものですが、じつはもう一枚、今回は送りませんが、珍しい写真が本棚にあったのでこっそりと複写しました。ナ、ナント、山路さんが「初孫」(息子さんの長男)と一緒に写っているものです。もう一歳ちょっとになるとかで、名前は「悠生(はるき)」くん。目鼻立ちのはっきりした、とても元気で利発そうな子供で、「もうちょっとしたら、『オジイチャン、お元気デチュカ』と携帯で電話してきますよ」というと、「バ、バカヤロー」と言いながらも、うれしそうでした。
ところで、その席で持ち上がった(というより、ボクが前々から考えていたことなのですが)話に、「昨年3月の会は大変盛り上がったけど、あれ一回きりではさびしい。今度は一つ、陽気がよくなった時期に、東京湾の『屋形船貸切パーティ』をやりませんか」という案に、海に弱いらしい山路さんはちょっと思案顔でしたが、山路夫人と島谷さんが大乗り気。あるていど人数がまとまれば、ホテルなどでやるのと大して変わらない予算(あるいはちょっと安く)で出来るはずだし、下調べをしてみようかと思っています。問題は参加希望者がどのくらいいるかですが、事前になにか調べる方法はありませんかね。
馬見塚達雄


2005年10月19日、別府育郎・産経新聞社会部長と不肖・宮崎が山路さん宅を訪問しました。付き添い役が一番飲み食いしてすっかり出来上がったのですが、そのときの報告と写真です。
別府・夕刊フジ運動部長が産経社会部長に転出したのは2005年のニュースの中でも青天の霹靂の部類でしょう。温厚な馬見塚さんすら「ぶったまげた」といってました。今回、本人も「驚いた」といってましたから、まあ誰にとっても仰天人事だったわけです。社会部長の大先輩にご挨拶ということでこの日の訪問になりました。
夏ごろ、このHPの掲示板で紹介したように山路さんは「夕刊フジの若いの(別府育郎のこと)が本紙社会部長になるようでは、社会部も終わりやな」と断言しておりましたが、その後、終わりにもならず、「立場が人を作る」とおり本人も貫禄がでてきました。やけに黒いのが「遊びすぎ」のイメージを与えますが、そのとおりゴルフをやるようになったとか。ゴルフにのめりこんだ増井誠、渡辺秀茂、しなかった稲田幸男と社会部長経験者がガン死したあとだけに、ご用心を。
山路さんは食が細いものの元気でした。話が往時に飛ぶのは仕方がないでしょう。この日も青木彰、俵萌子、司馬遼太郎、石黒英一(大阪の経済部長)と東西本社の人名枚挙できないほどで、ドイツにまで及びました。急性大動脈瘤乖離で倒れたときは産経秘書室から笹井武久さん(大阪社会部デスクからサンケイリビング社長)の訃報を知らせる電話をとっていた最中でした。運ばれた横浜市大医学部附属病院がこの病気の権威で、おかげで助かったようなものなのですが 、医者を恫喝する、看護婦には当り散らすの病院一の困った患者で有名になってました(見舞いに行った時目撃した)。
バイパス手術した先端が感染症のようなことになり、いまも3か月に一度検診を受けているそうです。次は12月ですが「まあ問題ないな」と勝手に自己診断してました。洋子夫人や途中で帰宅した長女、淳子さんも加わって夜中近くまで盛り上がりました。淳子さんは現在「Shonan Beach」というFM放送のミキサーをしているそうです。子供のころ夕刊フジ一番の若手として遊び相手を務めたのが別府君だったそうで30ン年前の話に花が咲きました。
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クリックすると大きなサイズになります
宮崎ばかり登場してますが、別府君撮影なので送られてきた時すでに恣意的操作が加わったためです。あしからず。
淳子さんの登場は大変珍しいと思います。

「OBの集い」(=正確には「夕刊フジの挑戦 出版記念パーティー」です)から4か月。皆さんお変わりありませんか。
馬見塚さんから「元気です。この暑中見舞いのハガキをホームページに掲載して」ということですので、下にアップしました。
ほかの方もご希望がありましたら、こちらに掲載しますので、お送りください。テキストだけでしたら、掲示板に直接
書き込んでくださっても結構です。近ごろいろいろな方に読んでいただいているようです。
すでに削除しましたが江尻良文、高塚広司両記者の名前を使い誹謗する書き込みがありましたが、別府育郎部長によると
大変優秀な東西の編集委員だそうです。

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「夕刊フジの挑戦」が出版されたときからの念願でした「OBの集い」が決まりました。
夕刊フジに関わった全ての人に案内を出すべきかもしれませんが、「フジ新聞社」の時代の仲間で集まろうと
いうのが会の趣旨です。内容は下に案内状を掲出しておきますのでご覧下さい。案内状は来てないがどうしても
という方は世話人まで連絡ください。


「夕刊フジの挑戦」がめでたく出版された3か月余りのちの平成17年(2005)正月、写真のような集合写真が届きました。馬見塚さんのメールには、
「明けましておめでとうございます。今年もよろしくおねがいいたします。正月2日、古希すぎの年寄りどもが横浜の
山路邸に年賀に訪れ、なんと夜の10時過ぎまで山路夫人の美味しい手料理と焼酎のお湯割りで盛り上がりました。
この写真のあとに82歳の丸山老まで加わりました。山路さんもかなり飲んでいましたから、体調はいいようです。
その席で、陽春4月ごろをメドに「夕刊フジの挑戦」の出版パーテーを兼ねて夕刊フジOB会をやろうという話がもち
あがり、酒井、松村、島谷の各氏が発起人候補になりましたが、お互い若くないので、やはりだれか気の利いた若
い人(といっても3,40代は無理でしょうが)が加わる必要がありそうです。もちろん、僕自身も全面的に協力する
つもりです。という近況報告です。馬見塚達雄」
山路さんは昨年何度か検査入院したり、大阪の昔の仲間が欠けたりして元気がないと聞いていました。賀状も
いつもは書き込みがしてあるのが、名前だけになっているので、すこし心配していましたが、写真をお見受けした
ところ「まだ大丈夫だな」と安堵いたしました。
丸山さんは奥さんを亡くしてから寂しがって、たまに飲むと”離れたがらない”症候群の気配が見られましたがお
元気です。そのほかの方々は見ての通りでまだアクが抜けていません。
出版パーティーの件は後日このコーナーでも報告できると思います。上の文章でも分かるように、これは夕刊フジでの
上下関係がいまだに生きていて、「50代、60代がやれ!」という命令形であることは明白です。このへんを「若手」という
のかどうかはさておいて、その意のあるところを察して、すでに動いています。2月の創刊記念日には間に合わないでしょうが
なるべく早くということで。

馬見塚さんのメールです。
「昨日出版社の担当部長と打ち合わせて、本のタイトルが正式にきまりまし た。『夕刊フジの挑戦 本音ジャーナリズムの誕生』といたってわかりやすいもので す。280ページのソフトカバーで1600円になります。b>全体の構成は初稿と変わ りませんが、小見出しや細部はかなり手を入れ、また書き出しにパンチを与えるた め、短い「プロローグ」をつけました。したがって「まえがき」はなし。「あとが き」はこれから書きますが、これもごくシンプルにしようと考えています。また、全 17章の冒頭に、その章を象徴するような夕刊フジのバックナンバーのコピーをあし らうことにしています。」

馬見塚さんの大作「夕刊フジ青春物語」(仮題)の出版についていくつかの出版社と交渉がありましたが、最終的に「阪急コミニュケーション」
から8月から9月に出版が決まりました。聞いたことがないところだと思われるでしょうが、以前「TBSブリタニカ」といったところです。
実は5月になって金田浩一呂・老人から電話があって新潮社が原稿を見せて欲しいといっているといってきました。この世界を少し知っている人なら
お分かりのように「本づくり」にかけては老舗がダントツのチカラをもっています。装丁、宣伝、時間をかけてゆっくり売るノウハウ・・・でも話を先に
もちかけたところへの義理もあります。内心、断ってきてくれたほうがいいのに、と思わぬでもありませんでしたが、「さすが手だれの方の筆になるだけあって
読ませる」と同社の出版会議に出されトントン拍子に決定となりました。金田老人すみませんでした。
「どういう人が読むのだろうか」といわれたこともあって、一方で買取の話も進めていました。ところが夕刊フジの加藤雅巳・代表が営業担当に
転出しました。後任は高尾氏といって夕刊フジプロパーではないだけに思い入れも違います。加藤氏は「無理に言えないしなあ」とあの調子です。
かといってあまりみっともない部数では格好がつかないし、これから販促の方のてこ入れが必要になるでしょう。これをごらんの皆様、そんなわけでいまから口コミ、
義理かけ、押し売り、バーター・・・なんでも結構ですので、売る心配の方を心がけてください。
この後の進行についてはまたこの欄で報告します。
馬見塚さんの執筆が脱稿したというお知らせメールを出したところ、別府育郎記者からメールが来ました。昨年夕刊フジに戻ってきたそうです。
(どこに戻ったのかは知らないのですが)。「写経記事」は書いてません、ということで夕刊フジもまだまだ大丈夫だと思わせる内容です。
このままメールのゴミ箱に格納するのは惜しいので、
おほめのくだりは割愛して紹介します。ご指摘のよど号や柴田泰弘の消息は早速加筆掲載しました。
Subject: 「驚愕」
> 拝啓
> 宮崎大叔の軽井沢HP、初めて目にしました。その充実ぶりに、はて、これほどマ
> メな方であったかと、驚愕の行ったり来たりでありました。やはりブン屋の戯れ言、
> たわ言が興味深く、大先輩よりはるかに年若い身ながら古い習性は抜けがたく、印字
> して紙に載った活字としてゆっくり読ませていただきました。
> 思い出すのは2階の編集局の深夜のソファ。缶詰のソーセージを爪楊枝でつつきな
> がらワンカップを手に、毎夜のごとく聞かされた宮崎さんの座談の数々。
>「貴様らが 座るのは10年早い」と恫喝されながらこちらはスチール椅子にすわったま
>ま、「釜が崎のアラン・ドロン」の話も「あさま山荘攻防戦」の話も、そこで聞いた話であり
> ました。ぜいたくをいうならば、おそらく10回は聞いたであろう、何度聞いても面
> 白かった密かにお気に入りの「青木湖バス事故取材の顛末」もそのうちに上梓してい
> ただけたら、と思います。あれが僕らへの、一つの記者教育だったのかもしれません。
> いまだに田中規雄らと飲むと、金田、小岩尚徳両大先輩のエピソードの数々を並べ
> るだけで、時間がいくらあっても足りません。酒席に加わる彼ら大先輩を知らぬ後輩
> らにも受けるものだから、競ってこんな話もあった、あんな話もあったと繰り出すの
> に、引き出しが尽きることはないのですから、その偉大さを改めて思い知らされます。
> 蛇足ながら、よど号機内で田宮らが、最初の寄港地をソウルと見破ったきっかけ
> は、手持ちのラジオに「思い出のサンフランシスコ」が流れたからだといいます。北
> のラジオにスタンダードナンバーはかかりませんから。38度戦を越える際には「北
> 帰行」を合唱したそうです。銃砲店襲撃の前には「彼なら銃器も持っているに違いな
> い」と大藪春彦邸襲撃も企て、先遣隊がファンを騙って訪れたところ、応接間に通さ
> れ、お茶も出してくれたことから襲撃先から外したという、のんきな一面もそのころ
> はまだあったようです。
>また、八尾恵のスパイ疑惑を最初にひっかけたのは私でした(警視庁公安担当時代)。
> 抜くはずが朝日横浜支局に先を越され、やや焦り気味に紙
> 面を先行させたきらいはあったように思います。結果的にはほとんどすべて正しかっ
> たことになるのですが。柴田は現在、のんきに渋谷やミナミの夜の街で、店の女の子
> に「おじさんは何をしていた人に見える?」「実は泥棒だったんだ」などと、酔っ払
> い中年と化しています。
> 千葉、東京社会、大阪社会部をまわって昨年7年ぶりに夕刊フジに戻りました。お
> 嘆きの惨状、中に居ると耳が痛いばかりですが、若干の言い訳をさせていただけれ
> ば、復帰後、運動面には「写経記事」は一行たりとも載せていません。徐々に、変え
> ていきたいとは考えています。
> いずれ、どちらかの酒席で。実は、宮崎さんは一番怖い先輩でありました。
> 別府育郎拝

馬見塚さんの力作、脱稿しました(2004.5.7)
「夕刊フジ青春物語」(仮題)を執筆していた馬見塚さんの大作が脱稿しました。掲示板にご本人が書き込まれたように「16章プラスワン、500枚」という大作です。
3月ごろ出版、という話もあったので気にかけていた方もいたと思いますが、筆の早い馬見塚さんに比べ出版社の方はまだ決まっていません。
「原稿がすべてあるなら、見せていただきたい」というので、GW空けに向こうに手渡すという段取りです。
しかし、すべてCDに入っているのと(最初はフロッピーだったそうですが大部になりCDに入れなおしたそうです)、酒を飲みながら腰痛との付き合い
を楽しんでいる原口順安氏の「校閲」もすんでいるということで、決まれば早いと思います。
パリの山口昌子さんからもメールがきて「どうなったでしょうか」というので、この報告を書いていますが、出版社が決まればまた報告します。
山口昌子さんの一時帰国で集まりました(2004.2.6)
山口昌子・産経パリ支局長が一時帰国するというので2004年2月6日(金)午後5時から、東京・有楽町の外国特派員協会に懐かしいメンバーが集まりました。「山口
昌子さまご帰国歓迎晩餐会」と看板は立派ですが、とりあえず連絡がとれたヒマだった8人は
山口 昌子
馬見塚 達雄
丸山 正一
島谷 康彦
小田 孝治
塩谷 安弘
土屋 達彦
宮崎 健
当初午後6時半開宴の予定でしたが、最近早く寝るらしく「5時にせい」と会場に他の客もいない昼間からの開宴にした張本人の、山路昭平氏は別掲の
ハガキを寄せ、出席予定でしたが直前に古傷の手術を受けた病院から検査入院を命ぜられ出席かなわず。原口順安氏は
持病の椎間板ヘルニアが悪化、電話に出るまでえらく時間がかかり部屋を這いずり回っている気配で「出れたら出るが・・・」と寝たきり状態
のご様子。細野憲昭氏は昨年、定年で故郷の千葉県の旭村に引っ込み、昼に起きてコンビニのものを食い、昼寝して夕方から酒をかっくらいの毎日で、
1か月で2キロ太った末期的状態。毎日ヒマだけどこの日は初の確定申告の書き方を教わる講習会とか。
冒頭、昌子さんからみんなにちょっと早いバレンタインデーのフランス産チョコレートをプレゼントされた男どもには「初めてもらった」という前世紀の
遺物のような方もいましたが、たちまち昌子さんのことなどそっちのけで昔話に熱中していました。気がついたら午後9時30分。実質討議4時間半、
だれも全貌を覚えていないという中身の濃い話でした。
下に当日の写真を貼り付けます。何十年ぶりという再会の方もいましたが、たまたま全員が昔の面影が残っていて識別可能なのでいちいち名前を
挙げませんが、それぞれ元気に活動していることは各人の報告にありました。付け加えたいことがあればメールでといってありますので、メールが届き次第
また掲載します。
加藤雅巳氏は、この日はどっかの会社の社長と先約があるとかで、昌子さんとは別に日を作る
そうですが、聞くところでは、夕刊フジのドル箱のサラ金(社内では正式には消費者金融)の営業収入が前年の7割減(つまり収入は前年の3割)に落ちたそうで、
本年2月25日の夕刊フジ創刊35周年を前にしても、とてもじゃないがパーティーを開く金がないと、例によってボソボソと聞き取れない声でボヤいていました。
馬見塚さんの執筆の方は順調で、もう半分以上書き上げたそうです。緻密な方ですので、関係者のインタビューを週に2、3人こなし、ほとんど毎日のように産経の調査部に通っているそうです。私
も記憶の前後が後先になっていることを指摘され、ボケが始まっているのかと暗澹とさせられました。夕刊フジばかりでなく本紙の現役の連中は
インターネットで調べるクセがついているようで、3時間調査部にいてもほとんど誰も来ないそうです。「あれじゃダメだ。それにしても昔の連中は文章がうまかった」
とそれぞれを喜ばせるようなセリフをはいていました。現役夕刊フジの記者には毎日の仕事内容を聞かれて「写経です」と抜かすのもいるそうです。
朝刊をみて書き写すだけということのようで、だれがみても書き手は育たない現状は情けないことです。
それはともかく、この日集まった連中でなんとか出版のお手伝いをしようということになりました。ひとつの新聞に情熱を注いだ青春の物語は、OBだけでなく一般にも
受けるのではないかという意見が多かったのです。第一、夕刊フジでパーティーが開けないなら、この出版パーティーでみんなまた集まろうということになりました。
そのほうが義理で呼ぶ冷ややかな連中もいないし、このタブロイドに愛情を持っている昔の仲間だけの方が盛り上がっていいんじゃないかということです。
とりあえず写真を貼り付けます。マウスを当てて手形マークが出るものは大きなサイズになります。コピーしてDPE屋に持っていけば紙焼きにもなります。(あまり希望者はいないでしょうが)
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山路さんのハガキを紹介します。「検査入院なので病院も教えない」そうですが一応お元気な様子です。
ただ、前回の入院では看護婦に文句は言う、恫喝する、奥さんには当り散らす、と最低の患者として院内に
鳴り響いていてそっちの方が心配です。
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2003年末、馬見塚さんは取材の必要上、宮崎は懐かしさから、相次いでパリの山口昌子・支局長に手紙やメールを出しました。 元気なのは産経紙面でもお分かりでしょうが、返事に夕刊フジの思い出や”あの”土井あや子さんの消息などが書いてありました。 紹介します。
> メールありがとうございました。
> 懐かしく拝見しました。先日、馬見塚さんからお手紙をいただき、お電話でお話しました。
> 夕刊フジは創刊号に長谷川肇 というNHKのアナウサーがテレビ朝日のキャスターになったという
>ニュースを書いた記憶があります。
>馬見塚さんには佐川事件の刑事と予審判事がその後、どんどん出世したり有名になった話をしたら、
>面白がっておられました。皆様の憧れの素敵 な土井あや子さんは相変わらず美人で素敵でした。
>3年前だったか、パリにやってきました。ご主人と一緒に新聞を発行しているそうです。
>ご主人の話をすごく楽しそうにしていました。その時、ご次男といっしょでした。
>主婦としても母親としても立派になられて、感心しました。
> パリはすっかりクリスマス景色です。
> どうぞ、お家族をはじめ、夕刊フジの皆様にも宜しくお伝え下さい。
> 季節柄、お風邪など召しませんように。
> 山口昌子
なにか夕刊フジの記録がほしいなあ、ということになったのはこの時からです。そのいきさつやその後の動きの記録 です。タイトルも決まっていなくて「夕刊フジ青春物語」として話がすすみました。
尾登さんの通夜
(2003年4月2日 磯子駅前2次会風景=
馬見塚さんのデジカメから)
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話はこの通夜から始まりました(03年5月14日記)
始まりは尾登辰雄氏の通夜の席です。上の写真のようにOBが集まりました。
そして来年夕刊フジが35周年を迎えることから、何か記念の文集を出したいということになりました。
実は前から馬見塚達雄・大先輩に勧めていたのですが、君がやれといわれるし、山路さんに言うと
お前がやれとなるので困っていました。
やるのはやぶさかでないのですが、なにしろ「貫目」がたりないので、もっぱら先輩をたきつけてばかり
いました。そうしたら尾登さんの通夜です。これを書いている5月13日は整理部の林清さんの訃報です。
そんなめぐりあわせになってきました。
馬見塚さんがこの秋にOBの集いを計画していることも知りました。通夜の席では、先輩に「そんなことは
加藤君に任せて、小冊子作りを急いでください」と申し上げました。そうしたら馬見塚さんが猛然とその気に
なってくれました。G・Wには山路宅をたずねたりして、別紙のような企画・報告の手紙が来ました。
「マミーよ、ペンを取れ!」の馬見塚さんがペンを取ったのです。もう出来たも同然です。
檄文のかわりに馬見塚さんの手紙を下に掲載しました(無断です)。そしてこのホームページの一角を
作業台がわりにしてもらおうと、関係者だけ見ることが出来るURLをつけました。
メール時代なので仮にここにアップしておけば、人が何を書いているかわかってダブりもなくなると思ったのです。
何人かの方には馬見塚さんから執筆依頼が行っていると思います。あの人にあのことを書いてもらいたい、という
のがあればメールをください。書いておきたいという方もどうぞ。ゴルフ担当だった福島靖氏と最近偶然会い
人間グリーンの下りを是非と申し上げておきました。夕刊フジ”オールカマー”です。
馬見塚 tmamizuka@yahoo.co.jp
(今年マミさんがパソコンを始めました。返事は早いです)
宮崎 miyazaki@t00.itscom.net
下にあるのが馬見塚さんの手紙です。とりあえず読める程度に貼り付けたものです。
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いきなり訂正記事です(03年5月15日記)
このホームページの開設とともに、お知らせメールをだしたところ、即座に多くの方から反応がありました。一方現役を中心にアドレスが
変わっていて返ってきたものも数通ありました。
馬見塚さんからも返信メールをいただきましたが、大事なことで先輩の方針と違っていたので、大慌てで訂正します。みなさんから原稿を集めてマミさんが編集して、と考えていたのですが、もっと大変なことを計画されているのです。
小生が計画しているのは、あくまでも客観性をもった「ドキュメント」であって、皆さんから寄せていただいた思い出の「断片」を集めた「文集」にしようというのではないのです。したがって、今のところ、最も重要な立場の山路さんにも執筆は頼んでいません。カギになる人には、小生が直接インタビューして話を引き出し、それを取捨選択して編集するつもりです。また、早くに産経を去りましたが、夕刊フジのアイデアを持ち込んだ先輩や、ライバル紙日刊ゲンダイ,東京スポーツの関係者にもインタビューする予定です。産経に残っている記録や調査部でバックナンバーの閲覧などもボチボチはじめるつもりです。 なぜこのような形にするかといえば、@皆さんに書いてもらったものを当方で取捨すると、あとで「なんでオレの原稿を使わないんだ」なんて苦情が出ると困る A重複する話がでてきたり、あるいは人によってまったくちがう話になっていることがありがち B第三者に読んでもらうためには、あまり内輪話だけではかえって面白くない--などの理由によります。 もっとも、寄せてもらったものが面白かったら、小生が企画している「ドキュメント」と「文集」の2本立てにしてもいいかなあ。あるいは、宮崎兄のホームページに掲載するのもいいかなあ--などと考えています。何分にも、まだエンジンを温めている段階で,資料集めに着手したばかりですから、どこへ流れていくのやら。
一言もありません。イージーにまとめようという私の魂胆とは違って腰をすえて取り掛かろうというのです。新聞記者のはしくれは恥じ入るばかりです。